2008年2月27日水曜日

バスラーの白い空から

須賀敦子さんの「本に読まれて」で、”抒情の原点に立つ”と評されているのを見てamazonで取り寄せた本。妻の死、愛犬セバスチャンとの暮らし、そして死、マドリッドへの家族旅行、バスラーでのこと、サハラの夜のこと、一人になってからの神戸や奈良への週末旅行のこと・・・。ちゃんと生きた人には振り返るべき人生があるということだろうか。しかし著者の佐野氏も幸せだけでなく、妻にはいえない罪もある。そして、その妻が”何も言わず、おとなしくこの世を去っていった”という文章はひときわ哀しい。そして、愛犬セバほどにはその人柄がこの本からではうかがい知れない妻との著者の関係はどうだったのだろうか?そこには少し後悔の念も見えることが気になる。そして、またその著者が過去の思い出をなぞるだけの時間しか与えられなかったことも哀しい。
全体的に装飾が多いともいえるが、激烈な商社マン人生を送ったとも思えない繊細なロマンティシズムあふれる文章である。いくつか紹介しておこう。
”春はいつの間にか終り、ハイビスカスなどの花群をふるわせるようにして、雨季が来た”
”僕は死んだセバを抱きながら、その夜、実際、夢見たのであった。・・・ニュージャージー州のメイプル林の秋のいろ、真紅と黄金の傾斜を駆け上っていき・・・”
”いつか必ずあのバスラーへ行ってみるつもりだ。そして、やさしく流れ続けているであろうアラブ河の岸にまず立とう”
しっかり人生を生きた人には、自分の人生を一冊の本として残す資格があると思った。

2008年2月25日月曜日

フォトジェニックな街

新しいデジタルカメラを買ったので、早速ここはやはり、ということで原宿に行った。
駅で降りて表参道を下る。でも耐え切れず小さな道で折れ曲がる。そこはフォトジェニックなものの宝庫なのだ。このあたりは原宿駅と表参道と竹下通りに囲まれた地域だから、ほとんどは物販店や飲食店や、あるいは美容院だったり、クリエイティブ系の会社の事務所だったりして、普通の住宅はほとんどない。
そして、それぞれが個性を競い合うかのように、外に向かう面をクリエイティブな表現満載にする。いかに自分のところがクリエイティブで才能豊かであるかを見せつけあっているかのよう。でも、そこにはいやらしさはない。だから次から次へ被写体にしたいと思うのだろう。地元の駅では撮りたいものがほとんどないのに、ここではシャッターを押したいものがいくらでもある。
色がいい、そして競い合っているのがいい。そして違う個性を競い合っているのがいい。そのエネルギーがそれらに映し出されている。
ポスターやお店の看板やショーウィンドーに飾られたものを撮影するのが好きだ。この街は街を歩いている人はこの街から何かを吸収しようとしている人だ。この街から何かを得よう、勉強しようと思っている人だ。だから、この街では街を歩く人は被写体としては弱い。この街を舞台に何かをしようとしているお店の主人や、事務所に働く人の方が魅力があるはずなのだ。
この街は新しいものを生み出す力において、NYよりもすさまじいエネルギーを持っているのかもしれないと、NYに行った時に感じた。
それにひきかえ、資本の力でねじ伏さないと占拠できない、明治通りや表参道の方が魅力がない。地下鉄が通って、チェーンの居酒屋ができ、カラオケができ・・・、つまんない街になるなよ。

ゲーテ「イタリア紀行」を旅する

29.Mar.1976と購入した日付のある岩波文庫のゲーテ「イタリア紀行 上」。なじみのない土地や寺院、遺跡の名前が山のように出てきて読みにくかったからか、前の方だけ読んだだけで終わっていたことが、この本を手にとらせた。たくさんの写真も美しかった。この本の作者はかって旅行会社に勤めていて、現在はボローニャに在住する旅行作家。ゲーテの「イタリア紀行」を丹念に読み、ゲーテがたどった寺院や遺跡やホテルをくまなく完全踏破したという魅力的な内容。
読んでみると「イタリア紀行」の記述に基づいて、丹念にそのあとをたどり、そして訪れた場所の紹介は周辺知識も含めてお手の物であり、見事である。しかし、ガイドとしては完璧であっても何かが足りない気がした。
ゲーテの「イタリア紀行」と、現在の「イタリア紀行」でゲーテが訪れた場所の紹介を完璧にしすぎた結果、完璧にするということに労力を使いすぎたのか、せっかく作者が自分が感動できる場所を贅沢にめぐりながら、自分の感動・興奮・発見が表現できていないように思う。写真を撮りすぎると、写真を撮ることに集中してしてしまって感動がおざなりになる、というのと同じようなことではないのかと思う。
割り切って「イタリア紀行」ガイドとして読めばいいのだと思う。自分でも車でいずれは訪れてみたいコースだ。そして、感動はちゃんとゲーテの「イタリア紀行」を読みなさいということなのだろう。

2008年2月23日土曜日

クリエイティブ性うつ

思うように作品が書けない作家、オリジナリティのあるヘアスタイルが作れない美容師、賞がとれないCMプランナー、いつまでもTCC新人賞がとれないコピーライター、流行が作れない服飾デザイナー、いいコンセプトがつくれないプランナー、その他、写真家、建築家、料理人、陶芸家、画家・・・およそ、クリエイティブな職業についている人がみんな悩むのが「クリエイティブ性うつ」。太宰治もゴーギャンも、ロダンも、みんな悩んだ。これを。「クリエイティブ性うつ」と名づけたい。

2008年2月22日金曜日

「虫眼とアニ眼」

養老孟司と宮崎駿の対談。宮崎駿の創造についての発言にはハッとさせられる。いわく、
”映画を作る作業というのは言葉で意識的につかまえられる範囲じゃなくなってくる行為なんですね。・・・、ある感じだとか、気分といった漠然としたものを手がかりに「こっちの方だな」と思ってはじめるわけですけど、・・・”(感じとか気分を手がかりに・・・、というのはスゴい!)
”トトロの映画を一回見ただけなら、どんぐりでも拾いにいきたくなるけど、ずっと見続けたらどんぐり拾いに行かないですよ”(なるほど!疑似体験で満足ということか)
”生きていくための武装に欠けている”(鉛筆を削れない若者が槍玉に)
”みんなが正義を口にし始めたら、一番ヤバイ”(「正論」なんていう雑誌があるが、正論だといって書く奴にろくな奴はいないと思う。自信過剰か狭い考え方の持ち主か教条主義者か。)
養老さんの”感性の基本には、ある種の差異を見分ける能力があると思う”という発言もその通りだ。感性とは変化がわかるってことらしいが、「なんか違う」と感じられることは生きていくうえで基本だ。苦いと思っても食べたという中国製ギョーザ事件。何か変だ。
感性をファッションで他人と差異化するためだけに、その能力を使い果たしてほしくないと思う。ファッションも感性の訓練の場としてはいいけれど、本当のゴールはそこではないだろう。

今週の外食

(月)昼:神宮前で鳥唐揚げ、ここはバーなので、期待していなかったが、唐揚げもしっかりしていて、ボリュームの充分。納得の880円。(火)昼:表参道、伊東病院を入ったところの蕎麦屋でかき揚げと蕎麦、昨日と違って今日ははずれ。(水)昼:カレーうどん&かやくごはん、夜:みそチャーシューラーメン(関内)

2008年2月21日木曜日

身の回りの環境をすべて変えたくなる瞬間

柴田よしきの「観覧車」を読んでいて、”若い時って、身の回りの環境をすべて変えて見たくなる瞬間があると思う”というフレーズに目が留まった。
きっと高校生のときの自分もそうだったんだと思う、二部でもいいから東京の大学に行くことを考えていたり(特別な雰囲気のあった早稲田の二文とか青山の二文とか考えていたように思う)、信州大学にも憧れた。これは、信州好きからかもしれないが。そして、結局現役のときは京都の大学はひとつも受けることはなかった。まるで、京都から逃亡したいかのようだ。
そして、念願かなって大学の4年間を神戸で過ごした。神戸で過ごしたことで、はじめて親から離れて一人で暮らし、小学校からの友人から離れ、京都ではない街で暮らし、ジャズを知り・・・・、やはり重要な期間だったのだろうと思う。
最後の1000円で京都に帰れるという土俵際にいないお気楽さもあった。鹿児島から来ている同級生がホームシック的な心の病になるというようなこととは無縁だった。本当には身の回りの環境をすべて変えたということにはならないだろう。保険を掛けているようなものだ。
それでも、あの時思いきって環境を変えたことは悪くない選択だったと思う。実は今いる環境をすべて変えてしまえるなんて贅沢は、人生長いといってもそんなにチャンスはないのだ。

2008年2月20日水曜日

あの頃、神戸で②「二五」

70年代半ばから後半にかけて4年ほど神戸の塩屋というところで暮らした。前は海、後ろは国道2号線、JR、山陽電鉄、そして六甲山から続く山々の狭い場所に建つ集合住宅で4年間暮らした。毎日海を眺めて、夜は瀬戸内海航路の船の明かりが美しく、こんな時間が就職してからもずっと続けばいいと思っていた。・・・が、結果は東京へ。望んで入社した会社だったし、東京も悪くなかったが、あの4年間は夢のような時間だったのかもしれない。
その塩屋の2号線沿いに「二五」はあった。カフェというより、バーレストランであるような粋なリゾート感がある店だった。お店についての記憶はもう断片的なものでしかないが、サンドイッチがおいしかった記憶があるのと、深夜に行くと舞子あたりのラブホテル帰りのカップルが結構いて、一人で本を読みながらビールを飲んでいると、なにか落ち着かなかった記憶がある。あたりには異人館が結構あり、その前の時代に流行った佐川満男の実家?があったりして、ちょっと非日常的な場所にある店だった。私が住んでいた集合住宅も週末のリゾート利用の家が多く、普段は半分も住んでいなかった。そんなこんなで、「二五」の客も遊び人が多く、何とはなしに心地よく崩れた感じが店に漂っていた。音楽は何が掛っていたのだろう。「二五」という名前も午後二時開店、朝の午前5時閉店ということからの名前ではなかったか。潮の香り、波の音と、沖合いを航行する船、異人館と、そんな雰囲気にぴったりのカフェ。湘南ほどの規模はないが、外国風のにおいがあるいい場所だった。

素敵な観覧車を舞台にした怖い話

柴田よしき著、祥伝社文庫の「観覧車」を読んでいる途中です。テレビのドラマの原作になりそうな通俗的な訳ありの若い女性探偵を主人公にしたミステリー連作。その冒頭の作品が「観覧車」である。観覧車に毎日乗って、双眼鏡で愛した人が山桜が咲き乱れる山中で首吊りしているのを60日に渡って狂女のように見続ける、さながら60日間の通夜のように見続ける。素敵な場所であるはずの観覧車をこんなにも怖い話の舞台に使ったのは作者の罪か?まあ、僕は観覧車が怖いので、いいんですけど。

2008年2月17日日曜日

藤沢周平「時雨のあと」

NHKの「わたしの藤沢周平」が読んでみようという気にさせた「時雨のあと」。人情味があって、ぬくもりややさしさがあって悪くない。解説では庶民や下級武士の人情の世界を叙情的に描いているのが藤沢文学の美質だとしている。こころの時代をブームの背景ともする。それはそれでそうかなと思いつつ、藤沢周平の女性の描き方が気になる。登場する女性は概ね、耐える女だったり、けなげな女だったり、待つ女、はかない女、それでいて芯はしっかりした女・・・・、それが気に食わない。これは藤沢周平氏の価値観にもよるのだろう。もっと違う女をどこかで描いているのだろうか。

あの頃、神戸で①ジャズ喫茶

70年代の半ば、神戸で4年間過ごした。特段何かに熱中していたわけでなく、一応大学へは行き、帰りには友人と六甲の喫茶店に入り浸り、一人のときは小説を読み漁り(この頃はドイツ文学をずいぶん読んでいた。ドイツ語は全くモノにならなかったけど、罪滅ぼしか)、住んでいたところは神戸の西の方の海岸だったので、夜は瀬戸内海航路を通る船を眺めながら本を読んで過ごした。今思えば本当に単調な生活だったと思うけど、そういうことで何の不満もなかった。バイトは普段は大学の研究室のバイトだけで、夏と冬のシーズンだけ、元町にある百貨店の伝票センターで働いた。夏は涼しいからというのが結構働く動機だったし、伝票センターは結構かわいい女の子が多かったのも続いた理由かもしれない。このときのバイト代で買ったのが、ブルーベルのギターとフラットマンドリン。
そんな頃、所在ない、持て余していた時間を一番過ごしたのは三宮と元町のジャズ喫茶。これらの店には一人でしか行ったことがないように思う。震災もあって、残念だけど、そのまま残っているものはない。
まずは、『とんぼ』。元町駅北口の雑居ビルの2Fにあった小さい店。記憶では、カウンターに3人ぐらい。壁際の長いすに2、3人、真ん中に4人掛けのテーブルがあったように思う。入り口近くにも席があったか?カウンターはいつも常連さんがいて、私の席は壁際の長いす。ここがいつも定位置だった。コーヒーはまずかったし、椅子は堅かったし(薄い座布団が申し訳程度におかれていた)、何を聴いたかももう忘れたが、一番たくさん通った店。あんなに通ったのにマスターと話したこともない。不思議なことだ。
次いで、『さりげなく』。ここも震災でなくなった。サンセット通りとトアロードの角の地下1Fにあった。元町から三宮間の阪急の高架の山側の通りがサンセット通り。誰がこんな名前をつけたのだろう。この店はきっと名前が好きだったのだろう。カウンターだけのお店だったように思う。余り居心地が良くなかったのかもしれない。とんぼと一緒でここもコーヒーはおいしくなかった。地下なので、時々虫が出るのがいやだった。
最後に、『木馬』。ここは、三宮のミュンヘン大使館の地下1Fにあった、上の2店より綺麗なお店で、お客さんに女の子もいたように思う。ここは名前を変えて、下山手通でお店が続いているらしい。
ジャズ喫茶には結構通っていたけれど、この頃はマイルスは受け付けなかった。ソニーロリンズはもう聴きはじめていたと思うが、ジャズについて勉強した記憶がない。スイングジャーナルを買った時期もあるが、この頃買っていたのだろうか?

ラヴィン・スプーンフルを聴いてゆっくり自転車で走ることについて

車で高速を走るとき心地よい音楽と、自転車でゆっくり走るときや自分の足で走るときに心地よい音楽は違うんじゃないかと思った。いまさら当然なんだけどね。茅ヶ崎から藤沢へゆっくりと海岸寄りの自転車と歩行者のための専用道を自転車で走りながら聴いたラヴィン・スプーンフルの曲は、とてもこの道を走るのに似合ってた。海沿いということもあるかもしれないけど。村上春樹が走るときに聴いているというラヴィン・スプーンフルだが、ゆったり走るときの自転車にもいい。
高速で走るときは、例えば今日の深夜に書いたビーイング系のような疾走感がある曲が心地よい。バブルの頃、その余韻が残っている頃、デートは車全盛の頃、90年代、きっとそういうことなんだろうね。

光る海とヨット


遠くにヨットが見えた。
デジカメの望遠を最大にして撮影。
光の中をすべるヨットが美しい。

江ノ島モノレール


もう登りはないだろうと思って、腰越の少し手前でふだんとは異なる道へ。それが、片瀬山への道でした。ちょっときつかったが、海の景色もいいし、モノレールの写真をゲットしました。

百苑(ももぞの)


サイクリングで柳島まで行った帰り、鎌倉下馬で右折して、はじめて百苑に行く。確か鳥が名物だったような記憶があったので、とりうどんを頼む。うどんは手打ちの太麺。だしは昆布ベース?でしょうゆを使わず、しょうが、ゆず、ゴマの香りであっさりいただく、本当に上品な味。とりもあっさり、でも量はしっかり。皮の部分は一切使っていないので、そういえば、だしに脂が浮いてなかった。

新記録!


2006年8月以降では最長距離60.4K。9:30出発で大船から片瀬山を登り、江ノ島へ下り、そこから柳島へ。写真は湘南海岸公園から。富士山が雲に隠れて惜しい。
今日の午前中は暖かかったので、サーファーが多い。自宅戻りは3:30。

マイフェイバリットソングス⑱サディスティツクミカバンド「タイムマシンにお願い」

サディスティックミカバンドでリリースされたのが1974年、そして2007年、33年を経てキリンラガーのCMで木村カエラのボーカルで再リリース。この曲を使ったのもナイス!だが、木村カエラを起用するとはやられた!カエラちゃんのイギリス人のおじいちゃんがサディスティックミカバンドと歌えるとはすごい!といってたらしい。33年前の曲とは思えない、ポップなリズムは今でも素敵だけど、松山猛の歌詞もぶっ飛んでて、すごい。金曜のTVでは尾崎亜美、これもよかった。
歌詞はこちら。
http://www.kashinavi.com/song_view.html?18190
金曜に加藤和彦をTVで見たことから、どんどん思い出している。きりがない。あの時代へ戻るか。

マイフェイバリットソングス⑰広田玲央名「だいじょうぶマイフレンド」

金曜のNHKBSの番組に加藤和彦が出ていて思いだしたのがこの曲。
「だいじょうぶマイフレンド」は83年の村上龍の小説、映画で、曲は加藤和彦作曲・“だいじょうぶマイフレンド”のフレーズがめちゃくちゃ耳に残る曲。あのフレーズだけで名曲と呼ばれていい曲だと思う。
広田玲央名もめちゃくちゃカッコよかった。

疾走感のあるサウンド

「疾走感」のあるサウンドが好きだ。とりあえずジャミロクワイのシングルズベストの中の「Canned Heat」を最近聴いていて、この言葉を思い出したのだが、金曜夜聴いた「タイムマシンにお願い」もそうだし、ジャンルはバラバラだが、押尾コータロー、ウェザーリポート(「Birdland」)、増尾好秋と来るとギター系が多いように思うが、ZARD、小松未歩、DEENとビーイング系にも多い。「疾走感」とは軽い表現をすればカッコいいサウンドをもいえるが、エンパワーメントしてくれる音楽ともいえる。

マイフェイバリットソングス⑯小松未歩「謎」

97年の曲。作詞作曲小松未歩。名探偵コナンのオープニングテーマに使われたこともあり、ヒット。アップテンポのメロディラインのきれいな曲。小松未歩はTVには出たことはないんじゃないかな。同じビーイング系の坂井泉水とメディア戦略は同じか。ちなみに宇徳敬子もビーイング系。この3人が同じビーイング系とはちょっとやられた感じがするが、DEEN、WANDS、織田哲郎、GARNET CROWとならべてみると、90年代のビーイング系の勢いがわかる。神戸市出身で現在も神戸市在住らしい。

2008年2月16日土曜日

今週の外食

今週は特記事項なし。
(火)昼:けんちんうどん+かやくごはん、夜:坦々麺、(水)夜:角煮ラーメン+キャベツトッピング(ここのキャベツトッピングはヘルシーでおいしい、そして安い、¥50、(木)昼:レバニラ炒め定食、(金)昼:とりそぼろ丼。今週の外食は、カロリーもtoo muchだし、反省ですね。

2008年2月15日金曜日

霜柱が消えた朝


昨日まで団地の中庭の日陰ににびっしりとあった霜柱をめったにないから撮っておこうと持って出たカメラでまず撮ったのがこの写真。
今朝は結構暖かかったので、もう霜柱は消えていていました。春の気配でしょうかね。

2008年2月14日木曜日

ジャミロクワイを聴いて感じたこと

アメリカの音楽と日本の音楽の違いをジャミロクワイの音楽を聴いてて感じた。
アメリカの音楽で一番重要なのはリズムではないか?そして、それに関係して、ビート、高揚感、グルーブ感、ノリ、ダンサブルであること、アグレッシブということなどが重視されているように思う。そしてドラッグ性のようなものを感じる。
それに比べて日本の音楽はメロディラインがかなり重要視されていて、それがなごみやいやしのようなものを与えている。また、高揚感やノリもメロディラインでつくられているように感じる。
これだけではないと思うが、音楽に求めているものが少し違うように思う。

エアチョコ

廊下であった新人の女の子が、両手を前に出して、「気持ちだけなんですけど」と一言。
とっさに「エアチョコってこと?」と応えていました。
こういう気持ちがうれしいですよね。でも、おじさんになったということ?

アンリ・サルバドールの死

記念すべき100回目のブログでは何を書こうかと思っていたら、2/14の朝刊でアンリ・サルバドールが13日死んだことを知った。サルバドールは昨年、TVフランス語講座ではじめて知った。フランス語講座でヨットに乗ってサルバドールがゆったりと歌う「私の島で」は、うっとりするほどの優美なリゾート気分に満ち溢れていて、衝撃的だった。すぐさまアマゾンに注文したほど。昨年9月に来日していたことをあとで新聞で知った。聞いておきたかった。

霜柱


今日はたぶん今年一番の寒さ。普段気付いていないだけかもしれないが、駅までの途中の団地の中で見事な霜柱を見つけた。
小学生のときは、霜柱の上を歩いシャキシャキ音がするのが楽しくて、寒さを忘れて霜柱を踏みつけることを楽しんでいた。
<以下、ウィキペディアより>
霜柱(しもばしら)とは、地中の温度が0℃以上かつ地表の温度が0℃以下のときに、地中の水分毛細管現象(毛管現象)によって地表にしみ出し、状に凍結したものである。
地表と地中の温度差が必要なため、霜より短い期間しか起こらない。厳冬期にしか見られない現象で、冬の季語である。
霜柱が起こると、土が持ち上げられてしまい、「霜崩れ」と呼ばれるさまざまな被害をもたらす。植物ごと浮き上がってしまい、農作物が被害を受ける。

2008年2月11日月曜日

シベリア鉄道


NHKBSでやっていた番組。シベリア鉄道でロシア各地を訪ねて、昔のソ連時代にNHKが撮影した映像と比較もしながら、今のロシアの息吹を見ていこうというもの。一回目を見逃して残念だが、中ソ国境での両国民の商取引やロシアの先住民族の暮らしなど興味深かった。
しかし、「シベリア鉄道」というタイトルから、もっと鉄道ファン向きの番組を期待したが、それは全く裏切られた。
車・衣類など様々なものが中国からロシアに流れる。ロシアの市場なのにオーナーは中国人。ロシアの農地で働く中国人。物資は鉄道で人間の手で運ばれるものも多い。香港から中国本土にモノが流入していた頃のようだ。ロシアから中国に持ち込まれるものもあるようだったが、概ね中国の、中国人のしたたかさやバイタリティが目立った。同じ社会主義下にあり、中国はそしてまだ社会主義下にあるのに、この違いは何なのだろう。国民性の違いか?いかにも商売人の目をしている中国人と、素朴な農民の目のロシア人、そんなことが印象に残った。
それにしてもロシアの女性は綺麗だ。さすがにバレエの国。ハバロフスクの街も美しい。この20年ほどで生まれ変わったそうだ。一度行って見たい街。

マイフェイバリットソングス⑮三輪車「水色の街」

しばらく、マイナーシリーズ、関西ローカルで行きます。
京都の歌をいくつかあげておこうと、うめまつりの「北山杉」を思い出し、映像をユーチューブで見ていて、三輪車のことを思い出した。
三輪車で検索して、「水色の街」という曲名が出てき、更にユーチューブで検索して、なんと曲をアップしている人がいた。う~ん、本当にびっくり!ユーチューブは本当にびっくりさせられることが多いが、こんなものまでありました。書き込みを見ても感謝している人が多い。シングルレコードを持っている人がアップしているようだ。74年の曲、確か当時彼らは関学に通って、それで同じく関学に行っていたSに教えてもらった。

“水たまりの中で/はしゃぎまわる君は/口から先に生まれたような/無邪気なおてんば娘”
歌詞もお気楽なら、歌い方も軟弱だけど、メロディラインはとても綺麗。学生のときにこんな彼女がいたなら楽しくて仕方ないよね。マイフェイバリットに入れるのは少し恥ずかしいが、記憶の中に残っている曲であることには違いない。

竹の家

鎌倉のお蕎麦屋さん。
下馬の交差点から逗子の方へ500mくらいか。1/4に行ったときは鶴岡八幡宮の帰りで、おなかもすいていたのでずいぶん遠くに感じた。ここは温かいお蕎麦もあるが、お店の自慢は冷たいお蕎麦です。
今日は逗子の方から自転車で来たので、写真だけ。自転車よく通る道すがらので、今度は立ち寄ってみましょう。

暖かい海


3連休初日は雪だったが、あと2日は日ざしのあたたかさに恵まれた。今日も暖かさに誘われて材木座の海岸で遊ぶ人が目立った。
海は一人で向かい合うと、海の声が聞こえる気がする。だから、一人で来る人が多いのだと思う。冬の材木座の人ではこれぐらい暖かでちょうどぐらいだ。寂しすぎず、騒がしすぎもせず。
午後2時過ぎスタートと今日は遅め。
六浦から逗子へ山を越え、小坪7丁目から鎌倉へ山を越え、北鎌倉でまた山を越える道。
最近はこれぐらいなら何ということはなくなった。
一周32.08K

マイフェイバリットソングス⑭松田聖子

ソニーのウォークマンが79年に発売され、当時33.000円したので、買ったのは翌年かな?そのウォークマンで最も聴いたのが松田聖子。中央線で通勤する車内で聞く松田聖子は毎朝僕を元気づけてくれた。とにかく朝は松田聖子だった。アップテンポの曲、松田聖子のきれいな高音部の声も、そして顔も好きという感じでした。
80年デビューの80年代の本当のトップアイドル。62年生まれ。
80.4「裸足の季節」、80.7「青い珊瑚礁」、80.10「風は秋色」、81.1「チェリーブラッサム」、81.4「夏の扉」、81.7「白いパラソル」、81.10「風立ちぬ」、82.1「赤いスイトピー」、82.4「渚のバルコニー」、82.7「小麦色のマーメイド」ここまで10曲。キレイに3ヶ月に一曲のペース。
自分で買ったのは、82年に発売されたアルバム「パイナップル」「キャンディ」の2枚なので、あとはあの頃出はじめていた武蔵小金井のレンタルレコード店で借りて、カセットに落としていたんだと思う。
作曲ははじめの3曲が小田裕一郎、そのあとの3曲が財津和夫、細野晴臣で1曲、その後は呉田軽穂(松任谷由実)が多くなる。作詞はデビューの5曲が三浦徳子、そのあとは松本隆。大好きな「天使のウィンク」(85.1)は尾崎亜美。

18倍ズームのデジカメ

18倍のズームつきのデジカメがここのところいくつか登場している。
10倍以上の高倍率とコンパクトを両立させたデジカメがあれば即買いなのだが、10倍ズーム以上で私が期待するコンパクト性を実現しているデジカメはまだない。
高倍率ズームが欲しいのは自分の撮影スタイルによる。
ひとつは”フレームに余計なものを入れたくない”ので、ズームでフレームに入れるものを選択したいということ。もうひとつは、”対象から距離をとって撮影したい”ということ。だから高倍率。
多分このことは自分の人生のスタンスを象徴しているのではないかと思う。自分の好みなどを考えると、人生結構ピンポイントで、様々なものを選択してきたように思う。そして、対象に歩み寄るのではなく、今の自分の位置で可能な範囲で物事を処理してきたように思う。

2008年2月10日日曜日

私の好きな本⑩R.M.リルケ「若き詩人への手紙」

自宅にある古い新潮文庫は74年に刷られたもの。75年大学に入って、1年生後期の小松原先生のドイツ語の授業の教材がリルケの詩だった。本当に難解だった。ほとんど理解できなかったように思う。にもかかわらず、教室の最前列でうっとり、リルケの詩を読む先生のドイツ語を聞いている女の子がいる。かなわないと思った。
その頃買ったのだと思う。この本でヤコブセンとロダンを知った。
文庫本で50ページほどの短いものだが、最も手にした回数の多い本だと思う。しかし、この文章を書くに当たって、もう一度手にとって読んでみたが、本当に真摯にリルケの声を受け止めてきたのか自信がない。また本当にリルケの言葉を理解していたのか自信がない。
“何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、自分自身に尋ねて御覧なさい、私は書かなければならないかと”
芸術とは厳しいものだ。
“必然から生まれるとき、芸術作品はよいのです”
芸術作品だけのことではないはずだ。人生にも同じことが言える。自分自身に尋ねてきたのか?
訳者の高安氏は“この手紙を読んで力を得ないものは、既に詩人の資格がない”と述べている。厳しく自分を見つめているのか否か、問い詰められている息苦しさがある。
味読すべき一冊である。少し訳が古くなってきているとは思うが、じっくり想像力を働かせ(若き詩人の手紙はないから想像力を働かせることが必要だ)、自分を見つめるための貴重な一冊であると思う。もう一度ゆっくり読むことにする。今からでも手遅れではないはず。

マイフェイバリットソングス⑬カーペンターズ「トップオブザワールド」

72年の曲。カーペンターズが活躍したのは70年代前半が中心。リチャードは46年生まれ、カレンは50年生まれ。カレンは83年に亡くなっているが、今生きていればまだ50代だ。
カーペンターズの歌は今聴くと、全体的には懐かしさを感じるが、「トップオブザワールド」は、今聴いても古さを感じさせない曲。昔ずいぶん歌った曲。
1974年の京都公演は京都でもずいぶん話題になり、友人達もたくさんコンサートに出かけたが、私は流行モノはなあというへそ曲がり精神で行かなかった。絶頂期にもかかわらず、あとで京都公演は空席があったと聞き、さもありなんと納得した記憶がある。京都公演では京都市少年合唱団が「sing」を一緒に歌ったとのこと。いい経験をした人たちももう40代後半か?
この時代、70年代前半はラジオを聴いていた時代で、この頃は女性の歌手が多かった。でも、みんな今、名前を聞かない。しっとりしたいい歌手が多かった。
でも、ユーチューブではみんな昔の姿が見れます。
オリビアニュートンジョン:1948生まれ。「そよ風の誘惑」(75年)
カーリーサイモン:1945生まれ。「うつろな愛」(72年)
ジャニスイアン:1951生まれ。「Love is blind(恋は盲目)」(76年)
キャロルキング:1942生まれ。「つづれおり」(71年)“it’s too late”(71年)
などなど。

2008年2月9日土曜日

今週の外食

(月)昼、ホイコーロー定食、(火)夜、神保町「いちこう」でおでんなど。(水)昼、ハンバーグ定食、(金)天ぷら定食。(火)、(木)昼はお弁当。月・水のお店は会社の近くの家庭的な定食屋さん。

センチメンタルジャーニー

好きだった本を読み直したり、好きだった曲を聴いて、詩を読み直したりして、その当時好きだった理由を見つめなおしてみることは、ある種のセンチメンタルジャーニーかもしれない。懐かしかったり、時には恥ずかしい思いでも甦るが、記憶の底に沈殿していたものが甦る思いだ。今の自分を形成しているものを見つめなおすことにもなりそうだ。

マイフェイバリットソングス⑫石川ひとみ「まちぶせ」

同じ時代でもう一曲。
三木聖子ではじめてこの曲が出たのは76年。石川ひとみがカバーしたのは81年。荒井由実作詞、作曲は松任谷政隆。
どちらも、ユーチューブで見れます。すごい時代です。
三木聖子はもう顔を見ても余り覚えていない。どちらも知ってるけど、石川ひとみの方が記憶に残ってますね。石川ひとみはTさんに似てたしね。八重歯がかわいいのも同じでした。

夕暮れの街角、のぞいた喫茶店 微笑み見つめ合う、見覚えある二人
あのこが急になぜか、きれいになったのは あなたとこんなふうに、会ってるからなのね
好きだったのよ、あなた、胸の奥でずっと もうすぐわたし、きっと、あなたを、ふりむかせる
気のないそぶりして、仲間に加わった テーブルをはさんで、あなたを熱く見た

あのこがふられたと、噂にきいたけど わたしは自分から、言い寄ったりしない
別の人がくれた、ラヴ・レター見せたり 偶然をよそおい、帰り道で待つわ
好きだったのよ、あなた、胸の奥でずっと もうすぐわたし、きっと、あなたを、ふりむかせる
好きだったのよ、あなた、胸の奥でずっと もうすぐわたし、きっと、あなたを、ふりむかせる
あなたを、ふりむかせる

“きっとあなたを振り向かせる”という歌詞。「まちぶせ」というのは、陰から見ているのではなくて、”待ち伏せて私を振り向かせるんだわ”という強烈なものだったんだということに、いまさらながら気付かされた。こわい歌かもしれません。

マイフェイバリットソングス⑪水越けいこ「アクエリアス」(アルバム)

1979年、会社に入った年に出たアルバム。
アルバムは今でも家にあるけれど、CDでは出ていないのが残念。
「ヨーソロ」「Touch me in the memory」「Too far awasy」などが含まれていて、今聞いても素晴らしいアルバム。低い声で好きな歌手は余りいないけど、丸山圭子さんから久しぶりに思い出しました。このアルバムが出た後、出産を期に一旦活動休止。ダウン症の子供さんがいて本も出ています。そして97年に活動再開。
ユーミンのような楽曲の新しさはなく、ほぼほぼ歌謡曲のジャンルともいえるのだけれど、彼女の歌はくっと心ににしみるものだった。50すぎて、まだ活動してくれているのが懐かしく、またうれしい。
“Too far away 君への道はfar away”
というフレーズはいつまでものこっているなあ。

マイフェイバリットソングス⑩丸山圭子「どうぞこのまま」

この確かな時間だけが/今の二人に与えられた/唯一の証しなのです
ふれあう事の喜びを/あなたのぬくもりに感じて/そうして生きているのです
くもりガラスを伝わる/雨のしずくのように  ただひとすじに/ただひとすじに/ただひたむきに....
それはばかげたあこがれか/気まぐれな恋だとしても/雨はきっと降り続く
くもりガラスをたたく/雨の音数えながらどうぞこのまま
どうぞこのまま/どうぞやまないで
さよならは涙とうらはら/さめたコーヒーのようなもの/だからいつまでもこのまま
どうぞこのまま/どうぞこのまま/どうぞやまないで
どうぞこのまま/どうぞこのまま/どうぞやまないで  

1976年本人の作詞作曲。「あの日にかえりたい」の翌年。
今、歌詞を読み返してみると、「証し」というような古い歌謡曲の歌詞のようなものも見受けられるが、この曲が夜行列車に乗ったときなどに最も口ずさんでいた曲のように思う。
“くもりガラスを伝わる/雨のしずくのように  ただひとすじに/ただひとすじに/ただひたむきに.... ”
“くもりガラスをたたく/雨の音数えながらどうぞこのまま どうぞこのまま/どうぞやまないで”
くもりガラスを列車の車窓になぞらえていたのか?
3/21に水越けいこ&丸山圭子のコンサートが西荻であることを丸山圭子さんのHPで知った。あの頃お気に入りだった二人の歌を聴きに行ってみようか?
ちなみに二人とも1954年生まれ。

マイフェイバリットソングス⑨ユーミン「あの日にかえりたい」

1975年、ユーミンのシングル6曲目。
冒頭の歌詞、
“泣きながらちぎった写真を 手のひらに繋げてみるの”
そして、ラストの歌詞、
“青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう あの頃の私に戻って あなたに会いたい”
この2つのフレーズが一番記憶に残っているが、夜行列車に乗り、頭の中でずいぶんこの曲が聞こえていた記憶がある。75年は大学に入った年だったが、既にどの時代かに戻りたかったのかもしれない。その後もずいぶん口ずさんだ曲だと思う。

2008年2月8日金曜日

私の好きな本⑨須賀敦子「ミラノ 霧の風景」

須賀のミラノ育ちの短い時間しか連れ添えなえなかった夫は「ずうっと肺臓の奥深くまで」霧を吸い込むとミラノの匂いがする、という方言の歌をよく歌ったという記述がある。
ミラノのイメージはこれまで、ドゥーモとおしゃれなミラノコレクションのイメージだったのが、須賀のおかげですっかり霧と「鉄道員」の世界のイメージに変貌した。陽気なイタリア人でなく、ここに登場している、特に“鉄道員の家”に登場する人間は貧しさや悲しみが霧の中に浮かび上がる。
須賀はミラノでエトランゼとしてではなく、全くイタリア人の中に生きた人である。須賀のイタリアでの13年はまさに重い庶民の生活感の中にあった。そして、それが力強い文章として結晶している。
この本の解説は池澤夏樹が書いている。池澤は須賀のイタリアでの生活について、「彼女はイタリアで大変よい生活を送った。よい生活とは、・・・落ち着いて見るもの、聞くものに誠実に接し、着実に暮らした・・・」と記述している。
懸命に、よりよく生きようとしたことが、文章から匂ってくる。
須賀の本の周りには、この池澤をはじめ、西脇順三郎、村上春樹と私の気に入っている人がたくさん出てくる。そんなことがちょっとうれしかったりする。
こんな文章がある。
“切り立った断崖の道をヴェネツィアにむけて走る汽車の窓から、はるか下の岩にくだける白い波しぶきと、帆かげの点在するサバの眼のように碧い海が、果てしなく広がっているのが見えた。”
風景が目の前に広がってくるような表現に思わず目を閉じる人も多いはず。

ヒーローを選ぶ選挙

クリントン:「私たちは戦いを続ける」
オバマ:「我々のときが来た。我々の運動は本物だ。米国に変化が訪れた」
アメリカ大統領選挙の民主党の候補選びでの二人の言葉。
大袈裟というか、Big Mouth的にも聞こえる。
ある種の高揚感を聴衆につくるためのものだ。コンサートを盛り上げるMCの手法。
アメリカ人は自分のヒーローを大統領選挙でつくろうとしている。
そしてそのときのキーワードでは、「平和」ではなく、「変化」「戦い」である。
仮想敵をつくって奮い立たせる。アメリカは変われないのだろうか?

2008年2月4日月曜日

東京タワー2


会社の12Fのエレベータホールからの夜の東京タワー。
望遠じゃないから、少し遠いけど、雰囲気ぐらいは伝わるかな。

めりはりのなさ

福田首相についてのコメントの二回目。支持率が低落した感想を求められると、仕方ないんじゃないかなとか、ここのところ投げやりな返事が目立つ。やっぱりリーダーシップにこの人は問題があるのだと思う。器ということが気になる人だ。個人的には決してきらいなキャラクターではないのだが・・・。
政策が不明瞭でメリハリがない。役人のスポークスマン。調整という名のごまかしが透けて見える。調整という名のごまかしはもうやめようよ。ずっとこんなことやってきて、限界がみんなに見えてきているのだから。未来を指し示すビジョンまで出さなくてもいいから、せめて課題を地道に整理して、解決するぐらいのことはして欲しいものだ。
延長、暫定、つなぎ、どうしてもこの人にはこういう言葉がつきまとう。

樹木から立ち上る湯気のようなもの


写真ではやはり写ってないですね。接写すればよかった。
大雪の次の日、寒い朝、樹木がその幹から湯気を立ち上らせていた。さながら、温泉からあがった人のように。
こういう湯気に、何か素敵な言葉がついてるんじゃないかな。
こんな光景はじめてみたが、樹木が生きていることを実感した。寒さに対して自衛しているようにも思えた。

2008年2月3日日曜日

私の好きな本⑧アーウィン・ショー「夏服を着た女たち」

79年11月に買った本。この頃、常盤新平さんか青山南さんの本で雑誌ニューヨーカーを知り、ニューヨーカーに掲載される短編に興味を持ち出した。ピートハミルはもう少しあとか?
「夏服を着た女たち」は題名自体がしゃれている。アーウィン・ショーの描くニューヨークの街・女・日常的なできごとは都会的で洗練されていた。
“遅くまで寝て、おいしい朝食をとる日曜”
“陽気が良くなると、夏服を着た女たち”
“朝食のあとで注文するクルヴァジェ”
“お金が棄てるほどある若いカップルがニューヨークで日曜日を過ごす計画”
なんて表現、その当時は本当に素敵な生活に感じたものだった。でも、ずっとあこがれだけで、実際にニューヨークを訪れたのはずっと後のこと。
そして、この小説でもよく出てくるのが「素敵」という言葉。常盤新平もあとがきで「素敵な世界に足を踏み入れたような喜び」と表現している。そうだ、まさしく、大きな世界の発見だったのだ。

グルーブ感

僕が好きな音楽に不可欠な要素の中で大きなものが「グルーブ感」である。
ウェザーリポートの「8:30」、ソニーロリンスのテナーやチャックマンジョーネのトランペット、キースジャレットのピアノソロ。太田邦夫クインテットの「フリー&ラブリー」の素晴らしかったが、レコードはあるが、CDが欲しい。チャットモンチーの「シャングリラ」にも同様のものを感じるが、これは異論が出るか。
ウィキペディアによれば、グルーブ感とは、ある種の高揚感を指す言葉であるが、具体的な定義は決まっていない。語源はレコード盤の針溝を指す言葉で、、うねりの感じからジャズレゲエソウルなどブラックミュージック音楽演奏表現する言葉に転じた言葉である。現在は、素晴らしい演奏を表す言葉の1つとして、ポピュラー音楽全般で用いられるが、ジャンルによって感じるグルーヴは様々であるとのこと。また、また「ノリ」を表す言葉である。理論的には音の意識的なズレ・遅れが生み出したりするものらしい。
個人的には、「うねり」「ノリ」「高揚感」「スパイラル的な盛り上がり」「体感的であり、体の芯を突き動かす力があること」かなと思う。
いずれ、「グルーブ感」で曲をピックアップしてコンピを作ってみましょう。

私の好きな本⑦村上春樹「午後の最後の芝生」

やっと村上春樹が登場。80.5.22に買った「風の歌を聴け」から村上春樹のものは小説も翻訳もエッセイもずっと読んでいるから、当然トップに出てきてもいいのだが、なんとなく成り行きでこういうことになってしまった。
そして、取り上げるのは「午後の最後の芝生」。
はじめは“中国行きのスローボート”の中の短編として読んだ(のちに英語版の「象の消滅」の中の一篇としても読んだ)。たくさんある村上春樹の小説の中で何故これなんだろう。余り深く考えることはここではやめておく。長編では「羊をめぐる冒険」なのだが、最も村上春樹らしさを感じる小説ということになると、個人的にはこれを挙げたい。
話は単に他人の家の芝生をアルバイトで刈る話なのだ。芝生をキチンと刈るのが好きで、丁寧な仕事をして印象が変わった庭を素敵と感じて、まあ、それが好きでやりがいを感じるのだ。まあそれだけの話ではある。
気づいた範囲内で、この小説で「素敵」という言葉が2回使われる。そのシーンを僕も素敵だと思う。
人生において一番大切なことは「素敵」と思えることがどれだけたくさんあるかということなんじゃないかななんて思う。成功とか達成とかいうことより、そんなことなんじゃないかなと思う。この小説は「素敵」ということを僕に教えてくれた小説なのだ。

文化の型が変わっていった1983年

2/2のNHKBSの昭和58年特集、面白く見ました。旧い時代の名残としての「おしん」「尾崎豊」(ファンに怒られるか?)ブーム、そしてまたこの年には「矢切の渡し」「さざんかの宿」なんていう演歌が大ヒットしていた。その一方で、ワンルームマンションが増えだし(はじめて私がワンルームマンションに住んだのが82年12月)、カフェバーブームが始まり(これはその後のバブルにつながっていくわけだが)、またこの年にTDLが開業している。新しい生活のインフラの登場だ。コンビニが増えたのもこの頃ではなかったか。糸井さんなどコピーライターブームもこの頃。モノがいったんほぼ充足して(バブル期には更にその上に突き抜けるわけだが)、文化の時代に入り始めた頃なのだろう。そういえば、84年の大卒の新入社員は「新人類」と呼ばれていた。ワンルームマンション、TDLなどこの時代に新しく生まれたものは、今でもスタンダードであり続けているようにも思える。

マイフェイバリットソングス⑧岡村孝子「ピエロ」

80年代後半は岡村孝子。「ピエロ」85年、「はぐれそうな天使」86年、「夢をあきらめないで」87年、「虹を追いかけて」88年、「アデュー」90年。
「ピエロ」はソロでのファーストアルバムの曲。
“見違えるほどいい女だといわれたくて今夜は・・・”
“男の好む女のタイプなんて見出しのついた女性雑誌のページを穴の開くほど読んで”
ピエロのごとくいろいろ演じてみせるのがいじらしい。
岡村孝子と坂井泉水は清潔感があって、澄んだ声を持つという点で似ている。坂井は男性ファンが多くて、岡村はOLの教祖といわれていたぐらい女性ファンが多いのが特徴である。個人的には、曲とともに、この二人のトーンの声が好きということだと思う。歌詞世界は少し異なる。思いを素直に伝える坂井の歌詞世界と引っ込み思案で遠くから眺めている岡村の歌詞世界。個人的にはどちらも好きだけど、歌詞は坂井の詩に好きなものが多い。
ZARDは91年の「Goodby may loneliness」でデビュー。岡村が少し全盛期を過ぎたのと入れ替わりで登場していることになる。

私の好きな本⑥トーマス・マン「ベニスに死す」

これは原作の小説にヴィスコンティの映画、そして映画の中で使用されたマーラーの交響曲第5番の3つが絡み合って魅力を構成している。
「少年愛」「デカダンス」「いかがわしさ」「官能の美」「閑暇に生きる日々」「感情の遅咲きの冒険」そして、破滅への道。
いろいろな解釈ができるのだろうが、マーラーの曲とヴィスコンティの映像美のシャワーの中で、アッシェンバッハとタッジオの二人の視線が絡み合う世界に傍観者として身を置くことで陶酔できるものがここにはある。
避暑地リドの海岸の風景の中のデッキチェア、いずれは訪れて身を横たえてみたものだ。

大雪


ひやーっ!昨日は穏やかだったのに、一夜明けると大雪。
現在10時半過ぎ。いつまで降り続けるのでしょう。
タイヤも替えてないし、チェーンもしまってあるし、すっかり閉じ込められてしまいました。
家のあるあたりは表通りからかなり入っているので、家の前はほとんど車が通りません。午後、少し雪かきしないと大変なことになってしまいそうです。

何といっても青山通り

しゃれてて、開放的で、新しいものが青山通りにはあった。
まずはオンサンデーズ:おそらく青山に来るようになったきっかけはこのお店のはず。その当時は日曜だけあいてて、こういう名前だった。武蔵小金井の田舎から日曜日に出てきていたのだ。雑貨や文房具や絵葉書や、およそ必需品でないもので心躍るものがたくさんあった。絵葉書は今も残っているものもある。ポップということを教えてくれた店。僕にとっては東京生活ではじめに出会った大切な店。
シルバーマグ;オープンは980.7.4とのこと。たぶん、オンサンデーズに行くときに見つけた店だろうと思う。当初は昼間もやってて喫茶店だった記憶がある。カフェバーブームのはしりのような店。たくさんあったインポートビールを楽しんだ。「ヌードビール」なんていうのもあったっけ。ラベルの女性のブラジャーを爪ではがすと、ヌードになるというカウンターでの遊びになる気のきいたパッケージだった。雨のときの斜めにつくられたガラス窓の雨だれが印象深い。亡くなったFさんを思い出す。
パイドパイパーハウス:骨董通りにあった輸入レコード店。この店はその当時の僕には全く無理な店で、知らないレコードばかり並んでいたが、そのお店の雰囲気出店に通った。だからいつもジャケ買い。社長をしていた岩永正敏さんの「輸入レコード商売往来」にお店の様子は詳しい。この本によると、開店は75年11月。このお店はずいぶん前になくなった。
大坊珈琲店;30g、100ccというような感じでコーヒーをお願いするスタイルは昔も今も変わらない。青山通りをあちこちうろうろして疲れるとこのお店でコーヒーを飲んだ。変化の激しい青山でコーヒーだけのお店がずっと続いていることがうれしい。
ブルックスブラザーズ:79年に青山にできた一号店。毎月一本ずつネクタイを買っていたじきがありました。ブレザーは高くて手が出なかったが、1万円はしなかったネクタイなら手を出せた。自分がレベルアップした気分になっていたのかもしれない。
オレンジハウス;雑貨屋さん。ここでずいぶん買い揃えた記憶があります。今はないお店。
紀ノ国屋スーパーマーケット:帰りに珍しい食材を買い込んでいたお店。高いから余り変えなかったけど、ずいぶん楽しまさせてもらいました。
そういえば、アクト青山という演劇集団の稽古場?も神宮球場に行く方にありました。確かMの友人が所属していた劇団。
青山ベルコモンズも既にありましたね。
タベルナ:スペイン料理のお店。ここでパエリアを覚えた。
まだ、忘れ物があるかもしれないけど、見つかったら「編集」しますね。
今も続いているお店がたくさんあるのがうれしい。
青山という場所の雰囲気は関西にはないものだと思った。会社が引っ越して青山経由で通えることになるのがうれしい。

私の好きな本⑤サガン「悲しみよこんにちは」

サガンをずいぶん読んでいた時期がある。あれは大学生の頃だったのだろうか?サガンは女性が読むものという印象があったから人前で読むことはなかった。それと、その頃出ていた文庫本はほとんどすべて読んだはずだが、どれもストーリーは覚えていないのが不思議だ。
ストーリーではなく、雰囲気を読んでいたのかもしれない。
昨年なにがきっかけだったか忘れたが、新潮文庫で「悲しみよこんにちは」を買った。
”ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。”
いきなりと惑わせるような文章ではじまる。
”安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの。”
”夏だもの”に惑わされつつ、共感を覚える自分がいる。
いいんだよ、自分の感覚に自由に発言して。
微妙な心理の描写や小説自体が持つ雰囲気が素晴らしい。朝吹登水子さんの翻訳も華麗なまでに美しい。
この小説は1953年に書かれている。サガン18歳のときの作品。処女作。サガンは2004年まで生きていたとのこと。これも驚きである。

94年ごろ

会社のプロジェクトでインターネットの将来についてあの頃よく語り合った。94年はウィンドウズ95登場の前年である。個人的にはマックでインターネットをはじめていた。その頃議論したのは、メールは一般に浸透するのか?キーボードをこんなにみんな使うようになるなんて、その当時は考えにくかった。また、ネット上の情報がこんなに活用されるようになることも、またこんなに有用な情報がネット上に無料で提供されるようになることも考えにくかった。そして、最もハードルが高いように思われたのは支払いの問題。ネット上で知った商品に対して商品も確認せずお金を支払うのか?上限は1万円以内か?など。そして、それをどうやって支払うのか?という問題。既にTVショッピングはあったのだが。
いくつもの問題を乗り越え、今のネット社会がある。ウィンドウズ95で「日本がバージョンアップする」というコピーができてからまだ13年。あっという間にこんなところまで来てしまった。

「気づき」をつくるコミュニケーション

コーチングで重要なのは、「教える」ことでなく、「気づかせる」である。
現在のコミュニケーションもこれと同じ考え方をとるべきではないのか。
「浸透」「認知」というような押し付け型ではなく、「自分に必要なものであることを発見させる、気づかせる」そういう技術が重要である。
ツーウェイ型コミュニケーションでは、相手が見えてきているだけに「気づき」をつくることが可能なのではないか?経験メディアは、まさしく経験することで「発見」「気づき」を作るメディアである。クチコミとは他人の「発見」「気づき」を共有することである。
イギリスのコミュニケーション・コンサルティング会社であるネイキッド社が考えるコミュニケーションの階層構造は、「ワンウェイ」「ツーウェイ」「経験メディア」「クチコミ」でできており、彼らはこの順に消費者に密着したコミュニケーションができると考えている。
こ枠組みで考えると、「ワンウェイ」以外はすべて、「発見」「気づき」をつくるコミュニケーションだといえる。「発見」「気づき」とは”共感”である。エモーショナルな思い入れをつくることが肝要になっている。

「ねっとり」した社会

“情報大爆発”における秋山隆平氏の指摘。
この言葉から、エーリッヒ・フロムの“自由からの逃走”を思い出した。
地域社会や血縁など「縁」から自由になり、かつ会社も終身雇用制が崩れつつある中で、逆の傾向が出てきているのが面白い。
確かに、携帯電話は24時間オン、いつでも通話可能。メールの返信もすぐないと落ち着かない人が増えている。メールにおける「C.C.」という情報共有の仕組み。C.C.で送ってくれるメールには送ってくれなくていいものも多い。発信者にとっての“保険”であることも多い。過去の購入履歴などでおせっかいなリコメンドをしてくるグーグル。ブログは、自分の気に入ったものをできるだけたくさんの人に影響を与えたいというおすすめの書き込みが一杯。コラボというのもねっとりだ。
“関係性”を再度ねっとりさせる方向にテクノロジーが“貢献”している。“余計なお世話”“わずらわしさ”を感じる向きもあるだろう。
余計な情報を遮断しないと、「個」が埋没しそうだ。あるいは“関係性”の中だけで、自らのポジションを選択する、あるいは環境に過剰適応するといった方向に行きそうだ。
地縁・血縁・社縁から自由になって通信が新たな縁を作る。まさしく“ネットワーク社会”なのだが、こういう方向を望んでいたんだろうか?
“自由からの逃走”にも見えるのだが。

2008年2月2日土曜日

ロンディーノ


稲村ヶ崎のロンディーノは1980年にオープンしたもう老舗といってもいいイタリアンの素敵なお店です。海沿いの一等地にあり、ご飯もおいしいいうことないですね。自転車でこのお店の前を通ることが多いのですが、最近はいつもお客さんがいっぱいだし、自転車に乗ってる格好ではお店に入れないですね。
夏前の平日のまだ日が暮れる前から、前菜をいただきながらワインを飲みだして・・・、というのが、このお店の一番素敵な過ごし方ではないかと思いますが、ワインを飲むなら車では行けないですね。
江ノ電でコトコト行って、帰りは車でも呼びましょうか。鎌倉の海は夜は寂しいけど、カップルの方は関係ないですね。

材木座海岸の風景


逆光で人がとんでいます。
子供と遊んでいる夫婦、カップル、凧揚げする子供、犬を散歩させる人、ランニングする人、一人できて「なに想う」という風情の人。思い思いに鎌倉の海を楽しんでいる。時々海を眺めることは心に浄化作用を促す。何かを求めて人は海に来るのだと思います。京都に住んでいるときは鴨川に同じものを求めた。時々来て、何かを捨て、何かを得るところになっていると思う。
写真は夕方のようにもみえるけど、まだ午後3時ごろです。

稲村ヶ崎のペーター


稲村ヶ崎のペーターは写真では写っていませんが、海が134号線越しに間近かにみえて、気持ちのいい店でした。この店によく行ってたのは80年代の前半だけど、店は少しずつ変わりながらも名前はまだ残っている。昔はプロモーションビデオに出てくる店だったりした、このあたりではちょっとした店だった。
今日は腰越から鎌倉を抜けて、35.52K。天気は比較的穏やかで風もなく、気持ちよく走れた。材木座の海岸はここのところ寒かったのに比べて少し寒さが和らいだからか、散歩するカップルや犬を遊ばせる人、ランニングする人、子供を遊ばせている夫婦など、この時期にしてはにぎやかだった。

マイフェイバリットソングス⑦風「ささやかなこの人生」他

75年の「22才の別れ」、「あいつ」、76年の「ささやかなこの人生」。おそらく最もよくギターを弾いて歌った曲だろう。風は75年結成、79年休止。すなわち、私の大学時代と全く重なっている。会社に入ってもよく「22才の別れ」を歌った。会社に入った当時、上司によく連れて行ってもらった麻布十番のスナックにギターがあり、そのギターを弾いて歌った記憶がある。そのときMが歌ってたのが「幸せになるため」だった。
かぐや姫は神田川の世界が好きではなかったが、伊勢正三の世界は好きな曲が多い。クールなショーヤンと熱いこうせつの違いか?

2008年2月1日金曜日

入社したての頃めざした空気感

会社に入社したのが79年。その頃気に入っていたものを書き出してみると、その頃自分が探していた空気感が伺える。
音楽:キースジャレット、増尾好秋、ユーミン
作家:片岡義男、村上春樹、アーウィンショー
アーティスト:マグリット、カンディンスキー、パウルクレー
場所:青山通り、キラー通り
お店:シルバーマグ、オンサンデーズ、オレンジハウス、東急ハンズ、渋谷のハンズの斜め前にあったタワーレコード、ミコノス、伊東屋、新宿紀伊国屋書店、六本木アクシス
お買物:伊勢丹、テイジンメンズショップ、ブルックスブラザーズ
食べるもの:インポートボール、キャンベルスープ、レギュラーコーヒー(手動で豆を挽いてた)、手作りしてたのはポトフやポテトサラダ、クレソン
美術館:西武美術館、原美術館、西村画廊
こうして、小金井の奥の巣から出て行こうとめざしたのが、自由が丘、鎌倉高校前、山下公園。
こうやって書き出してみると、今とほとんど好みが変わらない。進歩してないというか。
共通するところはなんだろうか?
洗練、都会的、クール、ポップ、日本的な湿気がないというようなことか?

冬の裸木


毎年1月に入って樹木の小さな枝が落とされる。これで翌年の春になって新しい葉や枝が生まれてくるのであろうか。冬の小さな枝が打ち払われた姿は妙にすがすがしい。冬の冷たい空気の中で凛とした存在だ。それぞれの木が思い思いの形をしていて面白い。ガウディの作品のようでもある。そして不思議だが昼間より夜間の方が趣きがある。

今週の外食

(月)昼、to the harbsのパスタランチ(エビとブロッコリーのクリームソース)、(火)夜、「升本」亀戸大根のスティック、ステーキ、かき揚げ、あさり鍋、大根のデザート。いずれも上品で絶品でしたが、あさりのいいだしが出ている鍋に残った汁をぶっ掛けて食べる麦菜飯は最高でした。今シーズンもう一度行きたい店。(水)昼、和風ハンバーグ。今週は火・木・金はお弁当。

もう2月

もう2月に入りました。1月からブログをはじめて1ヶ月経過。1ヶ月で書き込み58件。意外と続くものです。もう1ヶ月やってみて、書き込み傾向を見てみましょう。

久しぶりに銀座


午後、久しぶりに銀座へ。山野楽器でCD(懐かしい増尾好秋の”good morning")を買い、その後三越2階の喫茶「ヒルズ」でアップルパイとコーヒー。N氏と京都の話で盛り上がる。
「ヒルズ」は銀座4丁目角に位置する、眺めのよい店。
銀座をブラブラする人をウォッチする最適の場所だが、おばさん族が多すぎるのがね。でも、銀座三越では仕方ないか。