腰越経由柳島往復、52.7K。腰の調子はイマイチ。冬は近いが今日の辻堂西海岸はポカポカ陽気で波もまずまず、富士山もよく見えてサーフィン日和。
写真は江ノ島近くの江ノ島最中のお店の前から。電車の上に富士山があるのだが、電車の周りの露出が暗いので飛んでいる。残念。
2008年11月29日土曜日
父、宮脇俊三への旅
長女灯子さんが書いた父の思い出である。うまい文章ではない。普通の言い回し、凝ったところのないちゃんとした文章。丁寧なお礼状のような、良くも悪くも。
これだけ乗るために家を空けている宮脇俊三という人は家ではどういう夫であり、父だったのかを知りたいために求めた本であるが、そういう意味では娘から見た父は全く普通の父である。妻の目からはどうだろうか?しかし、妻が娘を見捨てている風はない。そうであれば娘の文章にその不満は表れるはずである。幸せそうな家族、父親への娘の愛情が感じられる本である。
この本で知ったのは戒名は自分でつけてもいいということ。名前から1字、性格を示す文字を1字入れることがルール。宮脇俊三さんはそういうことで、「鉄道院俊妙居士」とのこと。
これだけ乗るために家を空けている宮脇俊三という人は家ではどういう夫であり、父だったのかを知りたいために求めた本であるが、そういう意味では娘から見た父は全く普通の父である。妻の目からはどうだろうか?しかし、妻が娘を見捨てている風はない。そうであれば娘の文章にその不満は表れるはずである。幸せそうな家族、父親への娘の愛情が感じられる本である。
この本で知ったのは戒名は自分でつけてもいいということ。名前から1字、性格を示す文字を1字入れることがルール。宮脇俊三さんはそういうことで、「鉄道院俊妙居士」とのこと。
草食系男子「お嬢マン」が日本を変える
イエ→外→新イエ/ムラ→個→新ムラ:らせん型回帰
かっこいいより、男子も“かわいい”へ
<家族環境>
両親の“アイドル”、親も“男女平等”、シラケ世代の親、箱入り息子、家が好き
<社会環境>
バブルを知らない、先行き不安
<コミュニケーション>
ネット・携帯、親と仲良し、反抗期なし?、ゆるいつながり
<恋愛>
気持ちを伝えない、男子が本気にならない、恋愛は疲れる
<消費>
手堅いが気分型消費、合理主義
かっこいいより、男子も“かわいい”へ
<家族環境>
両親の“アイドル”、親も“男女平等”、シラケ世代の親、箱入り息子、家が好き
<社会環境>
バブルを知らない、先行き不安
<コミュニケーション>
ネット・携帯、親と仲良し、反抗期なし?、ゆるいつながり
<恋愛>
気持ちを伝えない、男子が本気にならない、恋愛は疲れる
<消費>
手堅いが気分型消費、合理主義
2008年11月28日金曜日
2008年11月27日木曜日
ハンマースホイ展
フェルメール展に向かう人に比べて圧倒的に西洋美術館に向かう人は少ない。こういう絵を混雑した中で見るのはいやなのでうれしい。 事前に日曜美術館で見ていたのでびっくり!はない。
「静かな詩情」というサブタイトルがついているが、単にそういうことではないと感じた。不思議さとか、奇妙さ(これは1枚の絵の中に2つの視点があるとか、影の向きが異なるとかいうことから感じるのかもしれない)とか、ある種のアブノーマルさや狂気などを感じる。これはテレビでは感じ得ないことで、やはり見に来ないとダメだ。
ハンマースホイはかなり限られた空間の中で生活して絵を描いている。“私は常にこの部屋のような美を思っていて・・・」とハンマースホイは言う。しかし、そもそもこの生活を愛していたのだろうかということさえ考えてしまう。
「後姿」「省略」(道を頻繁に走っているはずの車、ピアノの脚、ドアの金具の取ってなど)「人気のなさ」「笑顔のなさ」「静寂」「会話のなさ」「拡大した部分」「無音」「物音がしない空間」「大きめのキャンバスから切り取って出来ている完成部分」(この部分は絵の説明にあった)「生活感のなさ」・・・・。
これらは鑑賞して感じたキーワードだが、ここには自分の世界を作り上げるために「はぶく」という作業が全体的になされているように思う。
リルケがハンマースホイとつながっていた。さもありなんか。
最後に、「大きめのキャンバスから切り取って出来ている完成部分」と書いたが、望遠鏡で覗くような距離感という説明があったが、自分の写真の撮り方に通じる。何か対象に対する態度で共通する部分があるのだろうか。
「静かな詩情」というサブタイトルがついているが、単にそういうことではないと感じた。不思議さとか、奇妙さ(これは1枚の絵の中に2つの視点があるとか、影の向きが異なるとかいうことから感じるのかもしれない)とか、ある種のアブノーマルさや狂気などを感じる。これはテレビでは感じ得ないことで、やはり見に来ないとダメだ。
ハンマースホイはかなり限られた空間の中で生活して絵を描いている。“私は常にこの部屋のような美を思っていて・・・」とハンマースホイは言う。しかし、そもそもこの生活を愛していたのだろうかということさえ考えてしまう。
「後姿」「省略」(道を頻繁に走っているはずの車、ピアノの脚、ドアの金具の取ってなど)「人気のなさ」「笑顔のなさ」「静寂」「会話のなさ」「拡大した部分」「無音」「物音がしない空間」「大きめのキャンバスから切り取って出来ている完成部分」(この部分は絵の説明にあった)「生活感のなさ」・・・・。
これらは鑑賞して感じたキーワードだが、ここには自分の世界を作り上げるために「はぶく」という作業が全体的になされているように思う。
リルケがハンマースホイとつながっていた。さもありなんか。
最後に、「大きめのキャンバスから切り取って出来ている完成部分」と書いたが、望遠鏡で覗くような距離感という説明があったが、自分の写真の撮り方に通じる。何か対象に対する態度で共通する部分があるのだろうか。
2008年11月26日水曜日
朝9時半神宮外苑いちょう並木
2008年11月25日火曜日
時刻表2万キロ②
久しぶりに熱中して読み終えた。いやあ、久々すごい。何とも勤勉、何とも元気。日没後はNGという厳しいルールを誰も強制しないのに設定してやり遂げた。
確か私も1万キロ以上は乗っている。でも、乗りつぶしはありえない。できないし、やらない。しかしすごい。
”始末する””消化する””処理する”退治する”・・・乗りつぶすことを著者はいろいろな表現を用いている。ユーモアがあるというべきか、言葉どおりと見るべきか?
文章はユーモアがあり、観察と知性があり素晴らしい。ただの鉄道ファンではない。おぬし只者ではないな。
一度だけ出てくる奥様の「また行くの」という言葉が重い。
しかし昭和55年の国鉄路線図と今を比べると切ない。特に北海道と筑豊地区。
もう一度味読するか。
確か私も1万キロ以上は乗っている。でも、乗りつぶしはありえない。できないし、やらない。しかしすごい。
”始末する””消化する””処理する”退治する”・・・乗りつぶすことを著者はいろいろな表現を用いている。ユーモアがあるというべきか、言葉どおりと見るべきか?
文章はユーモアがあり、観察と知性があり素晴らしい。ただの鉄道ファンではない。おぬし只者ではないな。
一度だけ出てくる奥様の「また行くの」という言葉が重い。
しかし昭和55年の国鉄路線図と今を比べると切ない。特に北海道と筑豊地区。
もう一度味読するか。
原宿心療内科
神宮外苑のいちょう並木を見たあと、原宿方面へ。以前にもこの医院の前を通って感じたことだけど、原宿で働いている人はファッション系や美容師など「才能」が成功を左右する職業が多く、しかし収入は決して多くなく、心療内科を必要とする人がかなり多いのではないかと思っていた。費用の高い心療内科にかかる収入があるかは別だけど。そこで原宿の心療内科の先生(やはり場所柄若めの女性の先生でしょうか?)を主人公に、クリエイティブな仕事を目指す人たちの心の悩みをベースにおいた小説が書けないものかしらんと思う次第です。ミステリーなのか、はたまた心の悩みがあるということで、不思議系の話なのか、何も考えてはいませんが・・・。
神宮外苑いちょう並木
2008年11月24日月曜日
時刻表2万キロ
宮脇俊三さんの歴史的な名著である。
実は今は読み始めたばかりであるが、このワクワク感は残しておくべきだろう。
”鉄道の「時刻表にも愛読者がいる”という文章から始まる本の冒頭のはじめは考えもしなかった2万キロ全線走破が次第に目標になっていくくだりにはワクワクする。
この人のこの本が後にJRの2万キロ走破キャンペーンになったり、目指す人がずいぶんいたり、社会的な話題になった。わずかな線を走破するために週末の休みを使う。自前の費用を掛けるのだ。酔狂としかいいようがない。なるべく効率的にまわるために考えつくす。これがまた楽しいのはよくわかる。
北陸からスタートしたが、読み進めるのが楽しみである。
実は今は読み始めたばかりであるが、このワクワク感は残しておくべきだろう。
”鉄道の「時刻表にも愛読者がいる”という文章から始まる本の冒頭のはじめは考えもしなかった2万キロ全線走破が次第に目標になっていくくだりにはワクワクする。
この人のこの本が後にJRの2万キロ走破キャンペーンになったり、目指す人がずいぶんいたり、社会的な話題になった。わずかな線を走破するために週末の休みを使う。自前の費用を掛けるのだ。酔狂としかいいようがない。なるべく効率的にまわるために考えつくす。これがまた楽しいのはよくわかる。
北陸からスタートしたが、読み進めるのが楽しみである。
2008年11月23日日曜日
アンドリューワイエス展
1974年に京都で見て以来久しぶりのアンドリューワイス。
東京に来て、西武美術館で美術に目覚める以前、唯一感動した絵、それがこの「海からの風」。残念ながら今回の展覧会には出品されていなかった。
窓から入る心地よい風を本当に感じるかのようなリアリティのある絵で、それは繊細な描き方にもよるのだろうが、本当にこの窓からの風の心地よさを知っている人が書いた絵だから感じられるものなのだろう。
全体的には画風は繊細だが、アメリカの大地の強さや堅実さを感じるのがワイエスの絵である。
流れていたビデオではワイエスは”想像力が刺激されたときは動かなくてはならない、91歳の今でも”というような発言があった。
それほど、想像力が刺激されるということは貴重なことであり、大切にして、刺激された声のほうへ向かうことが必要なのだと思う。
朝霞の丸沼芸術の森にワイエスの絵が結構あるようだ。
東京に来て、西武美術館で美術に目覚める以前、唯一感動した絵、それがこの「海からの風」。残念ながら今回の展覧会には出品されていなかった。
窓から入る心地よい風を本当に感じるかのようなリアリティのある絵で、それは繊細な描き方にもよるのだろうが、本当にこの窓からの風の心地よさを知っている人が書いた絵だから感じられるものなのだろう。
全体的には画風は繊細だが、アメリカの大地の強さや堅実さを感じるのがワイエスの絵である。
流れていたビデオではワイエスは”想像力が刺激されたときは動かなくてはならない、91歳の今でも”というような発言があった。
それほど、想像力が刺激されるということは貴重なことであり、大切にして、刺激された声のほうへ向かうことが必要なのだと思う。
朝霞の丸沼芸術の森にワイエスの絵が結構あるようだ。
2008年11月22日土曜日
BENDとSCOOP
BENDが総称。フィンガリングはそのままであごで音を曲げる。
BEND(U)はタンギングなしで打ち直す。あごで音程を曲げて、リズムを打ち出す。あごでは限界がある、のどを使う。
SCOOP(ナイキのスウォッシュのようなマーク)はしゃくりあげる。フィンガリングがその音になった瞬間にあごが落ちる。音量はそのまま一定。
いずれにしても「あごの柔軟性」がポイントらしい。あごの力は抜くこと。
いやあ、ジャズらしくなってきました。
BEND(U)はタンギングなしで打ち直す。あごで音程を曲げて、リズムを打ち出す。あごでは限界がある、のどを使う。
SCOOP(ナイキのスウォッシュのようなマーク)はしゃくりあげる。フィンガリングがその音になった瞬間にあごが落ちる。音量はそのまま一定。
いずれにしても「あごの柔軟性」がポイントらしい。あごの力は抜くこと。
いやあ、ジャズらしくなってきました。
「おそろし」宮部みゆき
サブタイトルは三島屋変調百物語事始とある。
江戸時代のこういった怖い話はエンターテイメントだったのだろうか?あるいは許されない愛、、殺人・・・など人の道に外れたことをすると怖い目に合うという話で、戒めて秩序を守るということが根底の目的としてあったのだろうか。
現代の私はエンターテイメントとして読みたいが、でも怖い。
江戸時代のこういった怖い話はエンターテイメントだったのだろうか?あるいは許されない愛、、殺人・・・など人の道に外れたことをすると怖い目に合うという話で、戒めて秩序を守るということが根底の目的としてあったのだろうか。
現代の私はエンターテイメントとして読みたいが、でも怖い。
何だろう?
昼に赤坂青野に赤坂もちを求めに行く。
その途中の赤坂通りで見かけた光景。場所はビルの壁。いたずらではなく、持ち主の意思。
地元赤坂についての記述と絵。2.26事件に始まり、昔はお屋敷町でから始まり、バブルで街の景色が変わり、そして、昔は子供を叱っていたと言うような絵柄と色調にも拘らずの懐古トーン。こんなものを描いても怒られないのは穏健な住宅地とは違うところ。楳図かずおもこういうところに家を建てるべきだったのだろうが、住宅地に立てたところが立派。こういう場所でしかこういう個性的?とっぴなことができないところが日本のつまんないところ。お昼は六本木のいつもの男の台所でコロッケ定食。魚ものの定食以上にヘビーでした。
その途中の赤坂通りで見かけた光景。場所はビルの壁。いたずらではなく、持ち主の意思。
地元赤坂についての記述と絵。2.26事件に始まり、昔はお屋敷町でから始まり、バブルで街の景色が変わり、そして、昔は子供を叱っていたと言うような絵柄と色調にも拘らずの懐古トーン。こんなものを描いても怒られないのは穏健な住宅地とは違うところ。楳図かずおもこういうところに家を建てるべきだったのだろうが、住宅地に立てたところが立派。こういう場所でしかこういう個性的?とっぴなことができないところが日本のつまんないところ。お昼は六本木のいつもの男の台所でコロッケ定食。魚ものの定食以上にヘビーでした。
なぜ、資本主義は暴走するのか
久々に経済書。
90年代末までに「市場」は事実上の支配者となった。
そして「株主価値」という言葉が全てを支配することになった。
企業は本来は長い時間をかけて企業価値を高めていくべき存在であるが、今や目先の『株価』のみが目標になってしまった。すべては『株価』のために、である。企業は四半期ごとの利益ありきになり、利益は年々増えていくのが当然と考えられ、そこには当然のように無理が生じてくる。
『株価』至上主義は会計の偽装・利益操作を産む温床になり、企業・事業の買収・売却を進め、ストックオプション制度を肥大化やCEOのすさまじいまでの高い報酬というように、矛盾を膨張させ、様々な問題やひずみを生み出した。
規制緩和もそのためのものだったともいえる。インターネットバブルも背景としては大きい。
そして、ここには反対できない言葉が背後に存在する。それは、「自由な市場」「自己責任」「株主価値」「規制緩和」「利益は拡大するもの」。それぞれにわかには反対できない言葉である。そこに落とし穴があるということだろうか。
401Kは「市場」を活性化させることが目的のインチキな政策ではなかったか?自己責任という言葉のもとで、庶民の年金は失われた。責任は誰にあるというのだろうか?「市場」に魂を売り渡してはいけない。何のための「市場」なのか考えるべきである。人間は暴走するもの。多様な利害の折り合いをつけていく知恵が重要なのだ。
エンロン事件と9.11はほぼ同時期に起こったアメリカへの大きなしっぺ返しともいえる。ハインリッヒの法則でいえば、ひとつの大事故の背後には300の小さな兆しがあるという。多くの小さな兆しを見逃してきた結果なのだろう。
90年代末までに「市場」は事実上の支配者となった。
そして「株主価値」という言葉が全てを支配することになった。
企業は本来は長い時間をかけて企業価値を高めていくべき存在であるが、今や目先の『株価』のみが目標になってしまった。すべては『株価』のために、である。企業は四半期ごとの利益ありきになり、利益は年々増えていくのが当然と考えられ、そこには当然のように無理が生じてくる。
『株価』至上主義は会計の偽装・利益操作を産む温床になり、企業・事業の買収・売却を進め、ストックオプション制度を肥大化やCEOのすさまじいまでの高い報酬というように、矛盾を膨張させ、様々な問題やひずみを生み出した。
規制緩和もそのためのものだったともいえる。インターネットバブルも背景としては大きい。
そして、ここには反対できない言葉が背後に存在する。それは、「自由な市場」「自己責任」「株主価値」「規制緩和」「利益は拡大するもの」。それぞれにわかには反対できない言葉である。そこに落とし穴があるということだろうか。
401Kは「市場」を活性化させることが目的のインチキな政策ではなかったか?自己責任という言葉のもとで、庶民の年金は失われた。責任は誰にあるというのだろうか?「市場」に魂を売り渡してはいけない。何のための「市場」なのか考えるべきである。人間は暴走するもの。多様な利害の折り合いをつけていく知恵が重要なのだ。
エンロン事件と9.11はほぼ同時期に起こったアメリカへの大きなしっぺ返しともいえる。ハインリッヒの法則でいえば、ひとつの大事故の背後には300の小さな兆しがあるという。多くの小さな兆しを見逃してきた結果なのだろう。
2008年11月17日月曜日
2008年11月16日日曜日
ハンマースホイ
なかなか見に行けないのだが、日曜美術館で長い時間紹介された。1900年頃作品を残したデンマーク、コペンハーゲンの画家。シベリウスを思わせる静けさや“浄化”、澄み切った透明感を感じさせる。
発展に向けて盛り上がっていた近代化が進むその時代のコペンハーゲンに背を向けるように、室内にこもり、夫婦二人の生活空間を描いた。それも、妻の顔は描かず、後姿を描き、表情の表現を避けた。それは安易な解釈を拒んでいるようにも見える。
ドアにノブや蝶番がなかったり、後ろ足のないピアノ、陰の向きなど、見たものをそのまま忠実に表現しているのでは必ずしもなく、非現実的な部分が画面をすっきりさせる効果をもたらしている。
街を描いても、建物は立派に描くものとされていた時代に背くように簡素、あるときは寂しく、人気をなくして描いた。騒々しい世界に関わることを避けたいと気持ちなのか?
このあたりが今の時代に共感できる要素があるのかもしれない。
我々の住む世界は騒々しさに充ちている。音がないと落ち着かないようにもなってきている。静かに生きたいという気持ちは、できるかどうかはわからないが、憧れの向こうにある。
自分だけの小さな世界、この画家は絵がさして売れることもなく生きていけたのだから、豊かな家に生まれたと思う。生まれ育った環境である“小さく静かな豊かさ”を愛し、その中で生きていたと感じる。
この、“小さく静かな豊かさ”はほぼ同時代のパリやNYの街、そしてそこで描かれた絵画とは異なる感覚だ。
そして、番組の中のコメントの中で、“人間はとかく動くものに目が行くようになっていて、動くものを追うことで見失うものがある”というものがあった。
まわりの変化ばかりを追うことが、今の生活の中心だが、自分か周りに対して感じ、自分の中に生まれてくるものものはおそらく小さな思いだろうが、それを見失わないようにしなくてはいけないと感ずる。
発展に向けて盛り上がっていた近代化が進むその時代のコペンハーゲンに背を向けるように、室内にこもり、夫婦二人の生活空間を描いた。それも、妻の顔は描かず、後姿を描き、表情の表現を避けた。それは安易な解釈を拒んでいるようにも見える。
ドアにノブや蝶番がなかったり、後ろ足のないピアノ、陰の向きなど、見たものをそのまま忠実に表現しているのでは必ずしもなく、非現実的な部分が画面をすっきりさせる効果をもたらしている。
街を描いても、建物は立派に描くものとされていた時代に背くように簡素、あるときは寂しく、人気をなくして描いた。騒々しい世界に関わることを避けたいと気持ちなのか?
このあたりが今の時代に共感できる要素があるのかもしれない。
我々の住む世界は騒々しさに充ちている。音がないと落ち着かないようにもなってきている。静かに生きたいという気持ちは、できるかどうかはわからないが、憧れの向こうにある。
自分だけの小さな世界、この画家は絵がさして売れることもなく生きていけたのだから、豊かな家に生まれたと思う。生まれ育った環境である“小さく静かな豊かさ”を愛し、その中で生きていたと感じる。
この、“小さく静かな豊かさ”はほぼ同時代のパリやNYの街、そしてそこで描かれた絵画とは異なる感覚だ。
そして、番組の中のコメントの中で、“人間はとかく動くものに目が行くようになっていて、動くものを追うことで見失うものがある”というものがあった。
まわりの変化ばかりを追うことが、今の生活の中心だが、自分か周りに対して感じ、自分の中に生まれてくるものものはおそらく小さな思いだろうが、それを見失わないようにしなくてはいけないと感ずる。
2008年11月15日土曜日
“くつがえす”ということ
「(覆された)宝石のやうな朝」は西脇順三郎。
何かを覆して、変化があるということはいいこと。継続も価値であるが、継続・連続・持続に価値を置きすぎるのは良くない。”くつがえす”エネルギーはすごい。
何かを覆して、変化があるということはいいこと。継続も価値であるが、継続・連続・持続に価値を置きすぎるのは良くない。”くつがえす”エネルギーはすごい。
2008年11月9日日曜日
風の歌を聴け
久しぶりに読んでみた。
さりげない会話や状況描写そして空気感は、はじめから村上春樹は村上春樹であったことを感じさせる。
状況説明がないことで入り込みにくかったり、場面の切り替えが早かったり、翻訳小説調であったり、知らない洋楽の名前がたくさん出てくることでなじめなかったりもする。わかりにくいところとわかりやすいところをが同居しているとも言えるし、わかる人だけわかればいいという理解の仕方もあるだろう。また、わからないなりに何かを感じることはできるはずだ。わからないところに何故だ、と言うことでこだわるとつまらなくなる。おそらく、わかるとかわからないということをロジカルなベースでないところで納得するかどうかだろう。
さりげない会話や状況描写そして空気感は、はじめから村上春樹は村上春樹であったことを感じさせる。
状況説明がないことで入り込みにくかったり、場面の切り替えが早かったり、翻訳小説調であったり、知らない洋楽の名前がたくさん出てくることでなじめなかったりもする。わかりにくいところとわかりやすいところをが同居しているとも言えるし、わかる人だけわかればいいという理解の仕方もあるだろう。また、わからないなりに何かを感じることはできるはずだ。わからないところに何故だ、と言うことでこだわるとつまらなくなる。おそらく、わかるとかわからないということをロジカルなベースでないところで納得するかどうかだろう。
大きな物語
「大きな物語が失われた時代」だそうだ。目標喪失の時代といえるかもしれない。
しかし、大きな目標とは何なのか?ひとつのステージが成長しきって成熟すると、そのステージでの目標は確かに失われるかもしれない。しかし、次のステージはないのだろうか?
あるいは、人間が生きる上において、「大きな物語」は不可欠なのか?「小さな物語」では人は生きていけないのか?あるいははそうであってはいけないのか?
「大きな物語」があることは、ある意味その目標に向かって走ればいい、単純で生きやすい、寄りかかればいい、安易な時代とも言えるかもしれない。
個人個人が「小さな物語」を作っていく今の時代の方が、人はクリエイティブに生きられるのかも、生きなければならないのかもしれない。
しかし、大きな目標とは何なのか?ひとつのステージが成長しきって成熟すると、そのステージでの目標は確かに失われるかもしれない。しかし、次のステージはないのだろうか?
あるいは、人間が生きる上において、「大きな物語」は不可欠なのか?「小さな物語」では人は生きていけないのか?あるいははそうであってはいけないのか?
「大きな物語」があることは、ある意味その目標に向かって走ればいい、単純で生きやすい、寄りかかればいい、安易な時代とも言えるかもしれない。
個人個人が「小さな物語」を作っていく今の時代の方が、人はクリエイティブに生きられるのかも、生きなければならないのかもしれない。
2008年11月6日木曜日
六本木らしくないお店
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