2008年6月22日日曜日

芸術を語る人への違和感

美術評論家として美術を語る人に対してずっと違和感を感じてきた。
音楽評論家や映画評論家ではそれほど感じないにもかかわらず・・・。
芸術とは荒々しい魂の発露、エネルギーの噴出のようなものだと思うのだが、それを上質のスーツを着て、ネクタイを締めて、そしてこれがそう感じさせる根本だと思うのだが、「対象」として客観的に分析・解釈して、美術の流れ・歴史の中に位置づける作業をしているのが彼ら、評論家のしていることのように思えてならないのだ。それも、何か高いところから眺めて、語っているような気がする。あるいは学術という高みから芸術を眺めているとでもいうような。美学は芸術の上ではないはず。
音楽評論家(これはどちらかというとポップ系だが)や映画評論家と違うのは、リスペクトや単純な「すごいよね!まいった!ワーオ!」という感動がいわゆる芸術評論家からは伝わってこないことがそう思わせるのだろう。
芸術に「解釈」は必要なのだろうか?生み出す人に対して眺める人は最大限のリスペクトが必要だし、それを更に解釈する人は、それ以上のリスペクトが必要だと思う。

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