2009年1月18日日曜日

ユルスナールの靴

読むのは2回目であるが、依然として難しい。
冒頭の”きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまででも歩いていけるはずだ。”という極めて印象的な一文に心を奪われて、この書物に入っていくものの、ヨーロッパ文化にもキリスト教にも疎い自分には読みきれない。
旅・ノマド・・・、ユルスナールと須賀には共通するものがあり、ユルスナールに向かわせたのだろう。かなり晩年になって須賀はユルスナールに入って行ったようだから、ユルスナールの自伝の翻訳にまで行きつかなかったのだろう。残念である。このフランスに生まれ、アメリカの寒い荒野で生涯を終えた女性の自伝を須賀の翻訳で読みたかった。
“一人の女性が世の中の流れに逆らって生き、そのことを通して文章を熟成させていく過程が、かってなく私を惹きつけた。ユルスナールのあとをついて歩くような文章を書いてみたい・・・。”
「ついて歩くような文章」とは最大限の賛辞である。
「ユルスナールの靴」のあとがきを書いている多田智満子さんについては、あとがきでは余りいい印象を持たなかったのだが、須賀が死んで5年後、同じ病気で亡くなっている。須賀の1年あとに生まれ、ユルスナールに惹かれた2人の対談を読んでみたかった。
須賀の表現の中では比喩的表現に面白いものが多い。
”フランドル地方の、あのくすんだ家々のファサードを作り上げた煉瓦職人の緻密さで再構築していく”とか、”濡れた新聞紙みたいにぼってりと自分を包み込んでしまう沈黙が破りたくて”とか、”ガラスの靴を片いっぽう、よその家に置いてきた貧しい少女のように、心残りなままで”など。
他の著作でもこういう表現はずいぶん見られたように思う。

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