2008年9月29日月曜日

ジュンパ・ラヒリ「見知らぬ場所」

翻訳家の小川高義氏の訳によるところも多いが、冒頭からいつものラヒリの好ましい世界のニオイを充分感じさせる文体だ。
中篇集という体裁だが、全体を通して思うのは縦軸としての「家族・擬似家族」と横軸としての「カルチャー」の中で、様々な事件が起こっていくということだ。
「家族・擬似家族」で扱われるのは、新しい母と娘、子供が独立した夫婦、ルームメイトとその恋人の男性、叔父と家族の同居、週末の子供をおいての夫婦だけの旅行、世話になった家族との同居、娘と父と父の恋人など・・・。両親と子供というある意味“完全な”関係から「欠け」が生じたり、「思わぬこぶのような同居人」が出来たり、ルームメイトという「偶然の同居人」との生活など、「家族」や「擬似家族」「拡大家族」などの現代における様々な家族のカタチが引き起こす問題がここではテーマだ。あくまでカタチが問題なのではなく、カタチのもつ脆弱性が問題を引き起こすのだが。
もうひとつの横軸で扱われるのはアメリカ居住のインド人のインドカルチャーの問題だ。インドからアメリカに移った第1世代は、毎年インドに帰るなどインドとの関係は密である。しかし親を通してインドとつながっていても、一方でわずらわしいとも感じていた第2世代、ほとんど祖国との関係が薄くなり、ほとんど精神的にはアメリカ人である第3世代は、年齢の差とインドカルチャーの“濃度”の二つの意味合いで第1世代と大きなカルチャーの違いが存在する。
これらの縦軸、横軸で構成される人間関係はかなり脆弱なものである。この小説の中でも、大きな契機、小さな契機などさまざまなきっかけ、ちょっとした“食い違い”が破綻を生む。“父の恋人への手紙の発見”“母の写真”“酒”“浮気”“病気”“昔の女友達のこと”・・・、こういった“小さな”契機が“衝動”“爆発”“瓦解”を引き起こす。少し大げさだけど。都市生活における人間関係は脆弱なもので、そこが生き易かったりするわけだが、そこにさらにインドカルチャーの世代による濃度問題が絡まり、心情の表現は絡まりを表現する細やかなものが必要とされ、そこでもラヒリの手腕は見事である。

0 件のコメント: