2009年1月31日土曜日
2008年8月16日土曜日
2008年3月17日月曜日
私の好きな本⑪マロ「家なき娘」
小学生の時、両親が毎月買ってくれた小学館の少年少女文学全集のフランスの配本の回に入っていたのが「家なき娘」。本当に何回読んだことだろう。とりわけ気に入っていたのは、マロクールの村で住みはじめて見つけた小島の家の話。工場に勤めながら自分でサンダルをつくり、拾ってきた空き缶で食器やスプーンを作り、野草や野生のアヒルのたまごで料理を作る話。また自分で作った針で魚を釣り、洋服を縫う。なんでも自分でやってしまうこの部分がとりわけお気に入りだった。
久々に偕成社文庫で楽しませてもらった。こんな本がいまの子供にも読まれているとよいのだけれど。
久々に偕成社文庫で楽しませてもらった。こんな本がいまの子供にも読まれているとよいのだけれど。
2008年2月10日日曜日
私の好きな本⑩R.M.リルケ「若き詩人への手紙」
自宅にある古い新潮文庫は74年に刷られたもの。75年大学に入って、1年生後期の小松原先生のドイツ語の授業の教材がリルケの詩だった。本当に難解だった。ほとんど理解できなかったように思う。にもかかわらず、教室の最前列でうっとり、リルケの詩を読む先生のドイツ語を聞いている女の子がいる。かなわないと思った。
その頃買ったのだと思う。この本でヤコブセンとロダンを知った。
文庫本で50ページほどの短いものだが、最も手にした回数の多い本だと思う。しかし、この文章を書くに当たって、もう一度手にとって読んでみたが、本当に真摯にリルケの声を受け止めてきたのか自信がない。また本当にリルケの言葉を理解していたのか自信がない。
“何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、自分自身に尋ねて御覧なさい、私は書かなければならないかと”
芸術とは厳しいものだ。
“必然から生まれるとき、芸術作品はよいのです”
芸術作品だけのことではないはずだ。人生にも同じことが言える。自分自身に尋ねてきたのか?
訳者の高安氏は“この手紙を読んで力を得ないものは、既に詩人の資格がない”と述べている。厳しく自分を見つめているのか否か、問い詰められている息苦しさがある。
味読すべき一冊である。少し訳が古くなってきているとは思うが、じっくり想像力を働かせ(若き詩人の手紙はないから想像力を働かせることが必要だ)、自分を見つめるための貴重な一冊であると思う。もう一度ゆっくり読むことにする。今からでも手遅れではないはず。
その頃買ったのだと思う。この本でヤコブセンとロダンを知った。
文庫本で50ページほどの短いものだが、最も手にした回数の多い本だと思う。しかし、この文章を書くに当たって、もう一度手にとって読んでみたが、本当に真摯にリルケの声を受け止めてきたのか自信がない。また本当にリルケの言葉を理解していたのか自信がない。
“何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、自分自身に尋ねて御覧なさい、私は書かなければならないかと”
芸術とは厳しいものだ。
“必然から生まれるとき、芸術作品はよいのです”
芸術作品だけのことではないはずだ。人生にも同じことが言える。自分自身に尋ねてきたのか?
訳者の高安氏は“この手紙を読んで力を得ないものは、既に詩人の資格がない”と述べている。厳しく自分を見つめているのか否か、問い詰められている息苦しさがある。
味読すべき一冊である。少し訳が古くなってきているとは思うが、じっくり想像力を働かせ(若き詩人の手紙はないから想像力を働かせることが必要だ)、自分を見つめるための貴重な一冊であると思う。もう一度ゆっくり読むことにする。今からでも手遅れではないはず。
2008年2月8日金曜日
私の好きな本⑨須賀敦子「ミラノ 霧の風景」
須賀のミラノ育ちの短い時間しか連れ添えなえなかった夫は「ずうっと肺臓の奥深くまで」霧を吸い込むとミラノの匂いがする、という方言の歌をよく歌ったという記述がある。
ミラノのイメージはこれまで、ドゥーモとおしゃれなミラノコレクションのイメージだったのが、須賀のおかげですっかり霧と「鉄道員」の世界のイメージに変貌した。陽気なイタリア人でなく、ここに登場している、特に“鉄道員の家”に登場する人間は貧しさや悲しみが霧の中に浮かび上がる。
須賀はミラノでエトランゼとしてではなく、全くイタリア人の中に生きた人である。須賀のイタリアでの13年はまさに重い庶民の生活感の中にあった。そして、それが力強い文章として結晶している。
この本の解説は池澤夏樹が書いている。池澤は須賀のイタリアでの生活について、「彼女はイタリアで大変よい生活を送った。よい生活とは、・・・落ち着いて見るもの、聞くものに誠実に接し、着実に暮らした・・・」と記述している。
懸命に、よりよく生きようとしたことが、文章から匂ってくる。
須賀の本の周りには、この池澤をはじめ、西脇順三郎、村上春樹と私の気に入っている人がたくさん出てくる。そんなことがちょっとうれしかったりする。
こんな文章がある。
“切り立った断崖の道をヴェネツィアにむけて走る汽車の窓から、はるか下の岩にくだける白い波しぶきと、帆かげの点在するサバの眼のように碧い海が、果てしなく広がっているのが見えた。”
風景が目の前に広がってくるような表現に思わず目を閉じる人も多いはず。
ミラノのイメージはこれまで、ドゥーモとおしゃれなミラノコレクションのイメージだったのが、須賀のおかげですっかり霧と「鉄道員」の世界のイメージに変貌した。陽気なイタリア人でなく、ここに登場している、特に“鉄道員の家”に登場する人間は貧しさや悲しみが霧の中に浮かび上がる。
須賀はミラノでエトランゼとしてではなく、全くイタリア人の中に生きた人である。須賀のイタリアでの13年はまさに重い庶民の生活感の中にあった。そして、それが力強い文章として結晶している。
この本の解説は池澤夏樹が書いている。池澤は須賀のイタリアでの生活について、「彼女はイタリアで大変よい生活を送った。よい生活とは、・・・落ち着いて見るもの、聞くものに誠実に接し、着実に暮らした・・・」と記述している。
懸命に、よりよく生きようとしたことが、文章から匂ってくる。
須賀の本の周りには、この池澤をはじめ、西脇順三郎、村上春樹と私の気に入っている人がたくさん出てくる。そんなことがちょっとうれしかったりする。
こんな文章がある。
“切り立った断崖の道をヴェネツィアにむけて走る汽車の窓から、はるか下の岩にくだける白い波しぶきと、帆かげの点在するサバの眼のように碧い海が、果てしなく広がっているのが見えた。”
風景が目の前に広がってくるような表現に思わず目を閉じる人も多いはず。
2008年2月3日日曜日
私の好きな本⑧アーウィン・ショー「夏服を着た女たち」
79年11月に買った本。この頃、常盤新平さんか青山南さんの本で雑誌ニューヨーカーを知り、ニューヨーカーに掲載される短編に興味を持ち出した。ピートハミルはもう少しあとか?
「夏服を着た女たち」は題名自体がしゃれている。アーウィン・ショーの描くニューヨークの街・女・日常的なできごとは都会的で洗練されていた。
“遅くまで寝て、おいしい朝食をとる日曜”
“陽気が良くなると、夏服を着た女たち”
“朝食のあとで注文するクルヴァジェ”
“お金が棄てるほどある若いカップルがニューヨークで日曜日を過ごす計画”
なんて表現、その当時は本当に素敵な生活に感じたものだった。でも、ずっとあこがれだけで、実際にニューヨークを訪れたのはずっと後のこと。
そして、この小説でもよく出てくるのが「素敵」という言葉。常盤新平もあとがきで「素敵な世界に足を踏み入れたような喜び」と表現している。そうだ、まさしく、大きな世界の発見だったのだ。
「夏服を着た女たち」は題名自体がしゃれている。アーウィン・ショーの描くニューヨークの街・女・日常的なできごとは都会的で洗練されていた。
“遅くまで寝て、おいしい朝食をとる日曜”
“陽気が良くなると、夏服を着た女たち”
“朝食のあとで注文するクルヴァジェ”
“お金が棄てるほどある若いカップルがニューヨークで日曜日を過ごす計画”
なんて表現、その当時は本当に素敵な生活に感じたものだった。でも、ずっとあこがれだけで、実際にニューヨークを訪れたのはずっと後のこと。
そして、この小説でもよく出てくるのが「素敵」という言葉。常盤新平もあとがきで「素敵な世界に足を踏み入れたような喜び」と表現している。そうだ、まさしく、大きな世界の発見だったのだ。
私の好きな本⑦村上春樹「午後の最後の芝生」
やっと村上春樹が登場。80.5.22に買った「風の歌を聴け」から村上春樹のものは小説も翻訳もエッセイもずっと読んでいるから、当然トップに出てきてもいいのだが、なんとなく成り行きでこういうことになってしまった。
そして、取り上げるのは「午後の最後の芝生」。
はじめは“中国行きのスローボート”の中の短編として読んだ(のちに英語版の「象の消滅」の中の一篇としても読んだ)。たくさんある村上春樹の小説の中で何故これなんだろう。余り深く考えることはここではやめておく。長編では「羊をめぐる冒険」なのだが、最も村上春樹らしさを感じる小説ということになると、個人的にはこれを挙げたい。
話は単に他人の家の芝生をアルバイトで刈る話なのだ。芝生をキチンと刈るのが好きで、丁寧な仕事をして印象が変わった庭を素敵と感じて、まあ、それが好きでやりがいを感じるのだ。まあそれだけの話ではある。
気づいた範囲内で、この小説で「素敵」という言葉が2回使われる。そのシーンを僕も素敵だと思う。
人生において一番大切なことは「素敵」と思えることがどれだけたくさんあるかということなんじゃないかななんて思う。成功とか達成とかいうことより、そんなことなんじゃないかなと思う。この小説は「素敵」ということを僕に教えてくれた小説なのだ。
そして、取り上げるのは「午後の最後の芝生」。
はじめは“中国行きのスローボート”の中の短編として読んだ(のちに英語版の「象の消滅」の中の一篇としても読んだ)。たくさんある村上春樹の小説の中で何故これなんだろう。余り深く考えることはここではやめておく。長編では「羊をめぐる冒険」なのだが、最も村上春樹らしさを感じる小説ということになると、個人的にはこれを挙げたい。
話は単に他人の家の芝生をアルバイトで刈る話なのだ。芝生をキチンと刈るのが好きで、丁寧な仕事をして印象が変わった庭を素敵と感じて、まあ、それが好きでやりがいを感じるのだ。まあそれだけの話ではある。
気づいた範囲内で、この小説で「素敵」という言葉が2回使われる。そのシーンを僕も素敵だと思う。
人生において一番大切なことは「素敵」と思えることがどれだけたくさんあるかということなんじゃないかななんて思う。成功とか達成とかいうことより、そんなことなんじゃないかなと思う。この小説は「素敵」ということを僕に教えてくれた小説なのだ。
私の好きな本⑥トーマス・マン「ベニスに死す」
これは原作の小説にヴィスコンティの映画、そして映画の中で使用されたマーラーの交響曲第5番の3つが絡み合って魅力を構成している。
「少年愛」「デカダンス」「いかがわしさ」「官能の美」「閑暇に生きる日々」「感情の遅咲きの冒険」そして、破滅への道。
いろいろな解釈ができるのだろうが、マーラーの曲とヴィスコンティの映像美のシャワーの中で、アッシェンバッハとタッジオの二人の視線が絡み合う世界に傍観者として身を置くことで陶酔できるものがここにはある。
避暑地リドの海岸の風景の中のデッキチェア、いずれは訪れて身を横たえてみたものだ。
「少年愛」「デカダンス」「いかがわしさ」「官能の美」「閑暇に生きる日々」「感情の遅咲きの冒険」そして、破滅への道。
いろいろな解釈ができるのだろうが、マーラーの曲とヴィスコンティの映像美のシャワーの中で、アッシェンバッハとタッジオの二人の視線が絡み合う世界に傍観者として身を置くことで陶酔できるものがここにはある。
避暑地リドの海岸の風景の中のデッキチェア、いずれは訪れて身を横たえてみたものだ。
私の好きな本⑤サガン「悲しみよこんにちは」
サガンをずいぶん読んでいた時期がある。あれは大学生の頃だったのだろうか?サガンは女性が読むものという印象があったから人前で読むことはなかった。それと、その頃出ていた文庫本はほとんどすべて読んだはずだが、どれもストーリーは覚えていないのが不思議だ。
ストーリーではなく、雰囲気を読んでいたのかもしれない。
昨年なにがきっかけだったか忘れたが、新潮文庫で「悲しみよこんにちは」を買った。
”ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。”
いきなりと惑わせるような文章ではじまる。
”安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの。”
”夏だもの”に惑わされつつ、共感を覚える自分がいる。
いいんだよ、自分の感覚に自由に発言して。
微妙な心理の描写や小説自体が持つ雰囲気が素晴らしい。朝吹登水子さんの翻訳も華麗なまでに美しい。
この小説は1953年に書かれている。サガン18歳のときの作品。処女作。サガンは2004年まで生きていたとのこと。これも驚きである。
ストーリーではなく、雰囲気を読んでいたのかもしれない。
昨年なにがきっかけだったか忘れたが、新潮文庫で「悲しみよこんにちは」を買った。
”ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。”
いきなりと惑わせるような文章ではじまる。
”安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの。”
”夏だもの”に惑わされつつ、共感を覚える自分がいる。
いいんだよ、自分の感覚に自由に発言して。
微妙な心理の描写や小説自体が持つ雰囲気が素晴らしい。朝吹登水子さんの翻訳も華麗なまでに美しい。
この小説は1953年に書かれている。サガン18歳のときの作品。処女作。サガンは2004年まで生きていたとのこと。これも驚きである。
2008年1月23日水曜日
私の好きな本④西脇順三郎詩集
高校生のときにM先生に教えてもらった西脇の詩は一生の財産になっている。
詩集Ambarvaliaの、ギリシャ的抒情詩にある”カプリの牧人”という詩
春の朝でも/我がシシリヤのパイプは秋の音がする/幾千年の思いをたどり
この詩に始まっていくつかの詩が、ガリ版刷りで高校生の私たちに手渡された。そのときの記憶はないが、そのときのガリ版刷りがまだ大事に残っているのをみると、衝撃的だったのだろう。
詩集には74.2.20の日付がある。高3の冬、受験の真っ最中だ。
それからずっと自分の中で大きな存在感を持ってきた書物。
一昨年は小千谷の記念館に行った。新潟でAmbarvaliaを買った。田村隆一の紹介で更に好きになった。独特の言葉使いのセンスは西脇の前にも人はなく、跡を継ぐものもいない。誰にもまねのできないものだ。想像力をかきたてるというのか、これまでの日本の詩にはないものがあった。下世話でない、高踏的な、西洋かぶれともいえるが、その比喩の使い方は西洋世界に対する並々ならぬ博学ぶりをあらわしてなお、何か私たちを新しい世界に誘う。
西脇については尽きない想いがあるが、とりあえず。
詩集Ambarvaliaの、ギリシャ的抒情詩にある”カプリの牧人”という詩
春の朝でも/我がシシリヤのパイプは秋の音がする/幾千年の思いをたどり
この詩に始まっていくつかの詩が、ガリ版刷りで高校生の私たちに手渡された。そのときの記憶はないが、そのときのガリ版刷りがまだ大事に残っているのをみると、衝撃的だったのだろう。
詩集には74.2.20の日付がある。高3の冬、受験の真っ最中だ。
それからずっと自分の中で大きな存在感を持ってきた書物。
一昨年は小千谷の記念館に行った。新潟でAmbarvaliaを買った。田村隆一の紹介で更に好きになった。独特の言葉使いのセンスは西脇の前にも人はなく、跡を継ぐものもいない。誰にもまねのできないものだ。想像力をかきたてるというのか、これまでの日本の詩にはないものがあった。下世話でない、高踏的な、西洋かぶれともいえるが、その比喩の使い方は西洋世界に対する並々ならぬ博学ぶりをあらわしてなお、何か私たちを新しい世界に誘う。
西脇については尽きない想いがあるが、とりあえず。
写真は観音崎にある西脇の碑。西脇の「燈台へ行く道」が刻まれている。
2008年1月21日月曜日
私の好きな本③片岡義男「アップルサーダーと彼女」
冒頭2つ目の短い文章「トーストにベーコン・アンド・エッグス、そして紅茶」は、僕の片岡義男が好きな感覚的なところを最も代表した作品だ。
”トーストにベーコン・アンド・エッグス、オレンジジュースと熱い紅茶、そして日本では普通クレソンと呼ばれている草をひとつかみ、こんな朝食も悪くない。”
こんな文章で始まる。「アップルサーダーと彼女」は79年11月初版発行。あの頃、入社してすぐの頃、片岡義男の作品はずいぶん読んだ。バイクには縁がなかったが、片岡義男の小説に出てくるようなライフスタイルをめざした。この頃、トーストは4~5枚切りの厚いものにしてた。クレソンも少し苦いと思いながら、その頃よく作っていたポテトサラダの付け合せによく買った。小金井の明治屋でキャンベルスープを買い、コーヒーは手動のミルで豆をひいた。食器はその頃青山にあったオレンジハウスによく行った。・・・という具合に、少々アレンジしながら、自分なりの心地よい時間の過ごし方を、片岡義男の小説をテキストにしながら、少しずつ作り上げていった。
”トーストにベーコン・アンド・エッグス、オレンジジュースと熱い紅茶、そして日本では普通クレソンと呼ばれている草をひとつかみ、こんな朝食も悪くない。”
こんな文章で始まる。「アップルサーダーと彼女」は79年11月初版発行。あの頃、入社してすぐの頃、片岡義男の作品はずいぶん読んだ。バイクには縁がなかったが、片岡義男の小説に出てくるようなライフスタイルをめざした。この頃、トーストは4~5枚切りの厚いものにしてた。クレソンも少し苦いと思いながら、その頃よく作っていたポテトサラダの付け合せによく買った。小金井の明治屋でキャンベルスープを買い、コーヒーは手動のミルで豆をひいた。食器はその頃青山にあったオレンジハウスによく行った。・・・という具合に、少々アレンジしながら、自分なりの心地よい時間の過ごし方を、片岡義男の小説をテキストにしながら、少しずつ作り上げていった。
2008年1月19日土曜日
私の好きな本②田村隆一「詩人のノート」
1978年6月に三宮のkobeブックスで買った本。30年たっても旧くならず、いまだ大切な本。ずいぶん手に取っているから、ノートのビニールがぼろぼろだ。西脇順三郎の詩が取り上げられていたことが、僕を田村隆一に近づけた。田村の西脇信者ぶりもすごい。
この本は田村隆一そのものといってもいい本だ。西脇や自分をはじめとした詩や様々な詩人について(田村にとっての詩は生活そのものといっていい)、旅行のこと(意外にも結構行っている)、鎌倉の話(銭洗弁天や谷戸の話はここで知った)、そして何より酒の話(酔って機嫌のいい田村の顔が浮かぶよう)・・・、いろいろな話がここには詰まっている。。田村隆一は詩人だが、僕はこういうユーモアがあり、詩的センスがあり、おおらかな散文の方が好きで、肩に力の入ってない自然な文体が好きだ。詩では「青いライオンと金色のウイスキー」という詩があるが、この雄々しい感じが田村そのもののように思う。
1998年の8月に亡くなっているから、10周忌だ。
この本は田村隆一そのものといってもいい本だ。西脇や自分をはじめとした詩や様々な詩人について(田村にとっての詩は生活そのものといっていい)、旅行のこと(意外にも結構行っている)、鎌倉の話(銭洗弁天や谷戸の話はここで知った)、そして何より酒の話(酔って機嫌のいい田村の顔が浮かぶよう)・・・、いろいろな話がここには詰まっている。。田村隆一は詩人だが、僕はこういうユーモアがあり、詩的センスがあり、おおらかな散文の方が好きで、肩に力の入ってない自然な文体が好きだ。詩では「青いライオンと金色のウイスキー」という詩があるが、この雄々しい感じが田村そのもののように思う。
1998年の8月に亡くなっているから、10周忌だ。
2008年1月18日金曜日
私の好きな本①江国香織「デューク」
江国香織さんの本の中では、初期の頃の童話のような話や、姉妹をめぐる静かな話が好きだ。
その中でもお気に入りの、江国さんの初期の小説「デューク」について少し書いてみる。
大好きだった犬のデュークが死んで、私はそれでも仕方なくバイトに行くために乗っている電車の中ても泣き続けている。デュークはそんな私の元に1日だけ少年になって現れる。少年は人気のないプールに私を誘ってくれて一緒に泳ぐ。思いがけず私は気持ちよくなって、逆に少年を美術館に誘い、そしてなぜかデュークが好きだった落語に誘う。最後に少年は私にキスをする。私はそのキスがデュークがいつもしてくれたキスに似ていることに気づく。デュークが別れを告げに来てくれたのだ。そして、少年は「お元気で」といって駆けて行き、消え、私は立ち尽くす。そんな文庫本でさえ6ページの短い小説。
割合最近、「私」の役を優香ちゃんがやってドラマになった。結構良かったからビデオにも録画してある。キスのシーンは小説とちょっと違ってた。
「右斜め後ろからやってくる不意のキス、そしてその後に続く長く甘いキス」
ドラマチックだし、犬がご主人様にするキスとしてもわからないことはないが、ちょっとあざといかなとも思う? でも、少し大袈裟なのがTV。とにかく小説も、ドラマも良かった。
その中でもお気に入りの、江国さんの初期の小説「デューク」について少し書いてみる。
大好きだった犬のデュークが死んで、私はそれでも仕方なくバイトに行くために乗っている電車の中ても泣き続けている。デュークはそんな私の元に1日だけ少年になって現れる。少年は人気のないプールに私を誘ってくれて一緒に泳ぐ。思いがけず私は気持ちよくなって、逆に少年を美術館に誘い、そしてなぜかデュークが好きだった落語に誘う。最後に少年は私にキスをする。私はそのキスがデュークがいつもしてくれたキスに似ていることに気づく。デュークが別れを告げに来てくれたのだ。そして、少年は「お元気で」といって駆けて行き、消え、私は立ち尽くす。そんな文庫本でさえ6ページの短い小説。
割合最近、「私」の役を優香ちゃんがやってドラマになった。結構良かったからビデオにも録画してある。キスのシーンは小説とちょっと違ってた。
「右斜め後ろからやってくる不意のキス、そしてその後に続く長く甘いキス」
ドラマチックだし、犬がご主人様にするキスとしてもわからないことはないが、ちょっとあざといかなとも思う? でも、少し大袈裟なのがTV。とにかく小説も、ドラマも良かった。
登録:
投稿 (Atom)